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病をして苦しみ、のたうちまわって、初めて本当のことを知る。
すべては心の置きどころ。
生きているという事実を幸せに思い、人の喜びを、自分の喜びとする生き方を追求する。
この境地においては、もはや自分の健康とか運命とかは問題でなくなる。
今も、病で苦しみ、のたうちまわっている人の希望となるために、その生き様で体現して見せたいと思った。
この使命、尊いご指名。
偶然でなく、必然。
つくづく、この世はおもしろい。
人それぞれ持って生まれた体質があります。
疲れるとすぐに胃腸にくる人、頭痛がする人、皮膚に、呼吸器にと、各人それぞれでしょう。
こうした健康問題は生活上差し障りのある事柄であり、身近な死活問題であって、これを何とかしたいと考えるのは人の情けというものでしょう。
世に跋扈する治療法、医薬品、サプリメントなどは、そうした人間の心の救いともなり、逆に弱みに付け込む刃ともなるものです。
財産の多くをそれに費やして、なおも果たされない理想を追い求めて、さ迷い歩く。
つくづく、人間は宿命的に放浪者である、との思いを強くします。
一方で、そこから抜け出し、自己責任に立脚して、意欲的に生活習慣を見直し、体質改善に取り組む境涯に歩みを進める人もいます。
それによって、完全円満な体質を獲得できる人もありましょう。
一方で、血のにじむような、けなげな努力もむなしく、遅々として目的を果たせずにいる人もいることでしょう。
なかなか一筋縄ではいかないのが現実です。
他人のことは客観的に見ることができても、自分のこととなると途端に良く分からないものであり、また身についた癖を改めることが、どんなに大変なことか日ごろ身にしみて感じることです。
今の状況をなんとかしたいと行動に移せる人、なかなか行動に移せない人、行動に移してみるものの泥沼にはまり込んでしまう人。
人生はかくも苦しみに満ち溢れているものかと悲観したくなる日もあるでしょう。
常にまとわりついて不快な症状を出す、そうした自らの体質の奴隷になって、一喜一憂する人生があります。
振り回され、前途洋々であるはずの将来が台無しにされ、この体質さえなければと、この身を憎む日々。
不幸の根源でしかない体質。
たしかに、捉えようによってはそうかもしれません。
しかし、それではあまりにも不憫です。
この世にせっかく生を受けたのだから、この生を全うしたいと思うのもまた人の心に備わるものでしょう。
たしかに生得的な体質はゆるぎない一面があります。
そうであるならば、それを肯定的に捉えてみるのです。
弱く過敏なところであるがゆえに、いち早くこの身の危機を察知し、症状として生活上の是正を促すメッセージを発信してくれるのだと。
大難を小難に済ませるために導いてくれるもの。
より良き道を指し示してくれるもの。
それはまさしく人生の師ごとく。
激烈な症状を抱える人ほど、率先して厳しい師についた志の高い素質ある徒弟と言ってもいいかもしれません。
そのくらいの自負と気概があってもいいではないですか。
師の教えに真摯に耳を傾け、実践を繰り返していくのであれば、おのずと人間としての自然性の回復に行き当たるはずです。
これは何もないところではなかなか到達できないところですが、幸いにも師に恵まれ、その叱咤激励が強烈なモチベーションとなっているのです。
人間にとって進化向上の方向があるとすれば、このように一見否定的な事柄をひっくり返して、全肯定全活用していくことにあるのでしょう。
これからの時代というのは寸分の狂いもなく、真贋がくっきり分けられる時代なのでしょう。
捉えようによっては、これほど生きづらい時代はないと言えるかもしれません。
地震、津波、火山、放射線、感染症、免疫異常。
いやでも身体に内在する力がそぎ落とされていく時代、進んで自らを弱めるような習慣をするのは、もはや緩慢な自殺行為です。
奇しくも生肉を食らい、生血をすする不自然性が露呈しました。
人間にとって自然なあり方とは何か。
身をもって、生命をもって、示されているのです。
それにもかかわらず、人心は盲目的に過去に囚われ、旧習慣から抜け出せずにいます。
食を慎み、生活を整える。
この基本なくして、何を極められるでしょうか。
一時の享楽に耽り、退廃を身にまとっても、さまになる時代は終わりました。
とにもかくにも、ミソギです。
国家も国民も二の足を踏んでいる時間的余裕などありません。
日常の心持ち、身持ちいかんで、悲しいかな本当に犬死する時代です。
逆に言えば、尊く生き抜くことのできる時代です。
せっかくこの世に生を受けたのだから、この時代性を楽しみつくして逝きたいものです。
これからますます試練があるのでしょう。
途中リタイアでは情けない。
どうせなら最後まで役目を果たす。
そのために、自身を整え、自神を顕現させて、生を全うさせるのです。
これは殺人行為ではないでしょうか。
加熱用の肉と認識した上で、それをユッケとして提供した。
ここで浮かび上がってくる問題は二つ。
ひとつに、獣肉を生で食べることが、日本人の食性にかなっているのかどうか。
もうひとつに、現代社会の商業主義への疑問です。
食性とは、その動物が食物を摂取する行動の特徴を現すものです、人間以外の動物では肉食性、草食性などかなり色分けができるものです。
ところが人間は雑食性とも言えますが、思考の幅と比例するように、食物のバリエーションも他に類を見ないものです。
豊かな食生活が人間を人間足らしめる複雑な思考を裏打ちしているとも考えられますが、一方で生物としての生理的限界もあるわけで、避けるべき食物由来の毒物が出てくるのは当然でしょう。
毒キノコの類やふぐの卵巣、ジャガイモの芽などは一般に避けられているものです。
獣肉に関しても、その過食が動脈硬化や高脂血、高尿酸など生活習慣病の原因とされて久しいです。
何をどのくらい食べるのが人間にとって理想的であるか、食事療法の世界でも議論は止みませんが、一般的に歯の構成を観て食性を割り出すということがされています。
人間の歯は全部で32本、そのうち臼歯が20本、切歯が8本、犬歯が4本。
臼歯は文字通り臼(うす)の形をしていて、ごはんや豆など穀物をすりつぶすのに適した形です。
切歯は菜切り包丁のような形をしていて、野菜をこまかく切断するのに適した形です。
犬歯は先のとがった形をしていて、肉や魚を噛みちぎるのに適した形です。
これを総合すると、穀物60%、野菜・海藻25%、魚介類・肉類15%が人間の身体を形作る上で望ましいということになるのです。
さて現代人の食生活はどうなっているでしょうか。
生肉に関して言えば、新鮮さが求められ、調理の段階でも細心の注意が必要とされています。
粗製濫造、コスト追求の時代に、設備費や人件費のかかる生肉料理を廉価で食べようということ自体に物理的な無理があるのではないでしょうか。
つまり、生肉はその他の加熱料理に比べて、かなり限定的に食べるべきと考えるのが自然ではないかと考えられるのです。
もうひとつの問題として、現代社会の商業主義への疑問を挙げましたが、その最たるものが「総シロウト社会」に対する不安感です。
一昔前は、買い物といえば、商店街に出かけ、米屋、八百屋、魚屋、と個人経営の店を回り買い求めたものです。
それぞれの専門性がはっきりとしていて、仕入れから販売までこなすので、売り物に対するこだわりや知識というものがあって当然でした。
客とのやり取りにも、その商品に対する愛情をにじませたり、客の質問に薀蓄を傾けるだけの愛着と知識量はあったはずです。
翻って、現代の商店の事情をのぞいてみると、チェーン展開、多角経営です。
やり手の経営者が、お金になると思われる市場に無節操に進出して、システマチックに経営していく。
スタッフの大半は人件費削減のため、アルバイトやパートが雇われ、高度に分業化された上に、マニュアル化された単純作業を行えばよいだけになっています。
そこにかつて個人商店が持っていた志や愛着、知識量が醸成されるでしょうか。
たとえばチェーン店に出かけ、そこで商品に対して微に入り細に入った質問をしたら、単なる迷惑な客としてあしらわれるのがオチでしょう。
商品を注文して、それをただ提供される無機質なやり取りが繰り返されるばかりで、口に入る肝心な商品を介しての丁々発止のコミュニケーションがないというのは、身体衛生上やはり不健全といわざるを得ないでしょう。
自分の口に入るものであれば、それがどのようなものであるか精査し、吟味した上で頂くのが生物として本来ではないでしょうか。
野生動物であれば、慎重に見て、匂いをかいで、触ってみて、と近所の犬猫だって行っていることです。
話を戻せば、日本の産業構造を含めて、そうしたその道のプロフェッショなるとは言えないアマチュアの上に立った脆弱な社会であるということです。
卑近の原発問題も人災の側面が強くなってきましたが、ある意味同根とも考えられないでしょうか。
今回は食を取り巻く問題が露見したわけですが、富裕層はともかく、庶民層、社会的弱者に実害が及ぶようになってきたのが現況ではないかと思うのです。
一刻も早い街場の職人魂の復権が求められています。
それは言わずもがな、現代の産業構造をひっくり返すことです。
今までならそれは無謀な提案だったかもしれません。
しかし震災後、価値観が大転換しました。
何が本当に大切なのか、まざまざと見せつけられました。
この日本社会に巣食う原理が、食欲、物欲、性欲に基づいた利便性、機能性、経済効率である限り、被害者はさらに増え続けることでしょう。
日本の復興はこれからです。
全身真っ赤に晴らし、血がにじんでいる、アトピー性皮膚炎でしょう。
ぐずってかきむしるその手を、お母さんが何度も何度も皮膚から離し、真っ赤に血のにじむところをさするように、時にパタパタとはたき、皮膚を傷つけないように、かゆみが少しでも緩和するようにしていました。
赤ちゃんの顔は真っ赤に腫れ、まぶたもむくんでいました。
「まだ小さいのになんでこんなにも苦しい思いをしなければならないのだろう」
人生の不条理を感じざるを得ませんでした。
生命の働きである免疫機能が何かと必死に戦っているのです。
その反応は激烈で周囲の大人たちに何かを強く訴えかけているようにも見えました。
つい先日も自然食レストランでのこと。
二組の親子。
いずれも数ヶ月の赤ちゃんを連れたお母さん。
一人の子は、無邪気にはしゃぎながら、お母さん持参のジュースを飲んでいるように見えました。
もう一人の子はお母さんに抱かれたまま動いていなかったので寝ていたのでしょうか。
そのお母さんが店員に「今注文した料理に小麦粉は入ってますか」とたずねました。
「いえ、使ってませんよ」との答え。
自然食レストランだったので、食材に関しては目が行き届いているのでしょう。
ところが数分後、店員が飛んできました。
「しょうゆ、もしかしたら入っているかもしれません。」
和食で小麦を使うことはまれだが、しょうゆに入っているというの盲点です。
お母さんは「少しくらいなら」と言うが、どこか心配そう。
お母さんと店員の会話をよくよく聞いてみると、その子供は小麦、乳製品、卵のアレルギーとのこと。
その組み合わせ、まさにスイーツ、洋菓子、パンだと気づきました。
「母原病」という言葉がよぎります
乳幼児期は腸が未熟なため、高たんぱく質の食材がまれに消化できずアレルギーを誘発することがあります。
それでもアレルギーになる子とならない子がいるという事実は、遺伝的な要素があることを示しているのでしょう。
食べ過ぎるとアレルギーになるというのは、僕自身幼いころ経験したことがあります。
干しぶどうを食べ過ぎたのです。
お菓子よりは体に良いだろうという親の配慮であったか、僕自身の嗜好で食べ始めたのかは記憶が定かではありませんが、なにしろクセになるものですから、毎日相当量食べていました。
好物の干しぶどうでしたが、ある日突然、口の周囲にじんましんが出て、それ以来まったく手をつけなくなりました。
生命の法則として、同一の刺激が大量に繰り返されることを嫌うのでしょうか。
アレルギーという形で身体症状を発症させます。
いずれにしても、過剰が招く害。
我々は家庭の中で、食事に対する実践的な教育というものを受けてきたでしょうか。
受けられたのであれば幸せなことだと思います。
しかし、昨今、核家族化が進み、親の世代も両親、祖父母から連なる伝統的な知恵から断絶しているので、生活に直結した知恵というものが薄くなりつつあります。
学校教育においても食育というのは最近こそ言われ出しましたが、家庭科でちょっとした料理を作るか、栄養素の計算ぐらいのもので、本当に大切なことを教えられてこなかったのではないかと思います。
僕自身、ご多分に漏れず典型的な現代人として無知無教養から放埓な食生活になんの躊躇もなく過ごしていましたが、幸か不幸か、もともとさほど体質が強くなかったおかげもあって、早晩不調を感じるようになって、真剣に勉強を始めるようになりました。
ある時期になって気づき、生活全般を変えていければ、それに越したことはありませんが、不調を感じることなく、または感じてもそれを無視して突き進むのであれば、さまざまなところでひずみが出てくるのでしょう。
子供たちの先天的な病気は、胎児期の母体の影響を色濃く受けるので、母親にもその責任の一端はあるのでしょうが、その全責任を母親一人に還元するわけにも行かなくなってきているが現代の特徴ではないかと考えます。
妊娠する前から用意周到に勉強し、体質改善に取り組むのならいざ知らず、知識も実践も体質も不十分なまま妊娠に突入する場合が多く、街中で見かける妊婦の体型やファッション、食生活に驚かされることが多いものです。
しかし、これは個人の問題と同時に社会全体の問題でもあるのではないでしょうか。
化学物質の危険性を顧みず粗製乱造する生産者がいて、ただ安ければよいと質を問わずに買いあさる消費者があります。
スーパーにはそうしたものしか並んでおらず、好むと好まざるに関わらず自然食とはかけ離れた、きわめて人工的な加工食品で腹を満たす。
テレビCMや雑誌など情報媒体は購買意欲を刺激し、好きなものを好きなだけ食べることを幸福の条件のように誤解させています。
妊娠、出産に限ったことではありません。
生まれてから与えられる食事の内容も、どれだけ親の愛情が反映されているでしょうか。
つい昨日ニュースで、口の中にパンを詰め込まれて窒息死した子の報道があった
親による虐待死です。
まったく言語道断の悪意ですが、感情にまかせて衝動的な行動に出た原因に、ミネラルやビタミンなどの神経伝達物質に関わる微量元素の不足が食卓で起きたのではないかとかんぐってしまいます。
きっと詰め込まれたのは菓子パンでしょう。
それがおにぎりだったらまだ食卓は健全で、こんな結果にならなかったかもしれないと。
子供の病気を単に親からの遺伝であると決めてかかるのは早計だと思いますし、多かれ少なかれ胎児期と育児期にまたがる親としての後天的な自覚によるところもあるでしょう。
さらには社会全体の業を背負って血をにじませている子供たち、という視点も欠かせないでしょう。
その幼い子のたよりなげな肩に背負うには、甚だ大きすぎる苦しみが、決して無駄にならないために、大人たちは本気で行動に移さなければならないでしょう。
ある意味、今を生きる大人たちも一方で被害者かもしれません。
歴史をさかのぼって誰かに責任を押し付けても解決する問題でもないでしょう。
それならば、前向きに、親子以前に痛みを分かち合える人間同士として、互いに時に苦しみ、時に喜びながら、一歩一歩前進していきたいものです。
便利さをきわめて、失ったものは限りありませんが、愛するわが子にそれが及んでは、もう後ずさりすることはできないでしょう。
泣きはらした目の奥で、その子は、その生命は、何を訴えているのか、真剣に考えていこうではありませんか。
大切なお客様をお招きするとき、整理整頓、掃除を行き渡らせ、はきものを揃えるのに、道を求める者、自らの身体に無頓着なのはどういうわけだろう。
放埓な食生活で腸内を腐敗させ、悪臭漂う大便や屁を物ともしない。
血液の粘度を高め、血流を滞らせ、筋肉を固くさせ、神経の疎通を悪くして、動きを制限しているのにも気づかず。
病気や怪我をして、なお改めず。
「自分の体は所有物である」という意識からくるのではないか。
そして、それを自らの意識だけで、物のように自由に操作できるものと信じているようである。
あまりに内部感覚に疎く、感覚の細分化を怠った粗雑な思考様式と言わざるを得ない。
動きにこだわるとして、それはそれ以前の生活習慣、身構え心構えの集積として立ち現れてくることに気づかなければならない。
健全な呼吸、消化、吸収の上に、円滑なエネルギーの産生があり、そして神経系、内分泌系、筋骨格系の総和が、一挙手一投足として現れてくる。
内部感覚の細分化を怠り、意識で捉えられる末節の動きばかりにこだわっていては、その言葉のとおりコダワリは心身のコリとなって、ますます本質的な動きは見出されない。
「自らの身体は預かり物である」
そして、我が身を神殿に変えることを「道」と呼ぶに違いない。
神をお招きし、神が宿るにふさわしい心身をご用意させていただく。
これが「ミソギ」の真意に違いない。
鍛え上げた肉体美を鏡に映してほくそえむのに似て、自らの肉体を所有化し、それを意のままに操ることを旨とするあり方は、ミソギと対極にある自己顕示欲の暴走でしかない。
神はますます遠ざかっていく。
我を強めていった先にあるものは、焦りと恐れと傲慢である。
自神喪失。
弱い犬ほどよく吠える。
他を見下す優越意識、「教えてやっている」というごり押しなど、まったくありがた迷惑、犬も食わない。
我を手放していった先にあるものは、安定とやすらぎである。
「させていただく」という下座心、預かり物を大切にするという宗教心。
調心、調身、調息、すなわち三密の実践。
そこに自然な敬意を集めるのであって、押し付けがましい説教や、強圧的な態度は、内面の空虚さと粗雑さの表明でしかない。
純粋に道を求め実践を積んでいけば、本物と偽物の違いくらいわかっていいはずだ。
「神とともにあれ」
少なくとも「求道的である」ということは、こういうことではないだろうか。
先日、久しぶりに和式便器を使いました。
しゃがみこんでするタイプです。
最近めっきり見かけなくなりました。
一昔前までは、学校や駅、商業施設などにも洋式と比肩する勢力を有していましたが、今ではお目にかかると珍しく感じるようになりました。
個人的には和式があれば、あえて利用するようにしています。
たしかに腰掛けられる「いすタイプ」の洋式便器は、膝や股関節への負担が少なく、楽に排便できるので重宝されています。
しかし、改めて和式便器にしゃがみこんでみると、その洗練された合理性に目を見張るのです。
お産に際して、分娩台の仰向け開脚姿勢がいかにも人工的で無防備なように、いきみ出す姿勢というものの自然性を追い求めたとき、これ以上ない理想的姿勢なのではないかと思うのです。
人体解剖学的にも若干の前かがみが、直腸の通りを良くする角度のようです。
また久しぶりにしゃがみこんで気づいたことは、洋式に甘んじていた己の身体の不安定でした。
膝、股関節を最大限に折り曲げて作り上げられるこの姿勢を安定的に保つためには、一にも二にも熟練が必要であるということです。
サッとかがみ、潔くすみやかに出す。
そして、用が済んだら外連味なくスッキリ伸びやかに立ち上がる。
きっと先人たちは、練られた丹田と強靭な足腰をもって、こうした無駄のない所作でこなしていたのでしょう。
ところが、かくいう現代人である私自身、久しぶりの和式、一人個室でゆがんだ表情とぎこちない醜態をさらしてしまうのです。
生理学的に「廃用性萎縮」
使わなければ衰える。
あまりにもあたりまえのことなのですが、目先の利便性に踊らされて、どんどん自らの可能性を狭めてしまっているのです。
公共交通機関の発達には目を見張るものがあります。
階段だってエスカレータやエレベータにその座を奪われつつあります。
そんな時代に何が起こるかといえば、先史以来、最も脆弱な人間がつくられていくということです。
古来より技芸の極意として「腰を入れろ、肚をつくれ」と言われてきました。
卓抜した動きを生み出す身体感覚に他なりませんが、同時に難局を乗り越え、未来を切り拓いていく胆識を生み出す原動力になっていたように思います。
解剖学的にも股関節は上半身と下半身を結ぶ人体最大の関節です。
この股関節を取り巻く筋肉が硬くなることで、その動きは制限され上半身と下半身の連携がスムーズにいかなくなります。
反対に股関節を取り巻く筋肉を柔らかくすれば、格段に身体の動きが良くなるのです。
すると股関節に乗っかる腰、股関節を支える膝に過度のひねりなどの負担が飛躍的に軽減するようになります。
つまり股関節に着目すると「動き」と「障害」の二つを同時に解決することができるのです。
さらに神経系(仙髄、坐骨神経)循環器系(鼠径リンパ節・大腿動脈)の活性化から健康的な身体まで望めます。
和式便器で培われるやわらかく健やかな股関節をして、はじめて伝統的身体感覚である「腰、肚」意識も開発されるのでしょう。
誰もが老化を避けたいと思っています。
年齢を重ねても、いつまでも健康で若々しく生きたいと思っています。
それならば、青い鳥はすぐ目の前にいるということに気づくべきではないでしょうか。
加齢と老化は断じて違います。
加齢は抗えない自然法則ですが、老化は心がけひとつで遅らせることができます。
その方法もまた、きらびやかな虚飾とは対極にある、埋没しがちな地味で愚直な生活の基本にこそあるのではないでしょうか。
寒桜が咲き始めた。
2月には河津桜が、3月にはソメイヨシノが、伊豆半島を彩っていく。
桜咲く季節も、伊豆に来て3度目になろうとしている。
「石の上にも三年」と決意して、見知らぬ土地でご奉仕させていただいた。
まっさらな気持ちで学ばせていただこうと当初誓いを立てたが、ほどなくして人事異動が相次ぎ、過分な責任ある立場が与えられることになり、かといって根っからの楽天家、大して気負うこともなく、日々淡々と楽しんできた。
三年後の自分が何を考えるかわからないが、そこで身の振り方を考え、齢30にして、自分が生きてきた証を残すべく具体的な道を実践していこう。
当初の思いは今も変わらない。
思えば26で結婚すると宣言して、1年遅れてそれを果たした。
アファメーションの効用を、若干の時間差がありながらも、なんとか体現してきた。
これからも自らの運命は自ら切り拓き、悔いのない人生を歩みたいものだ。
年頭に当たり、力強い言葉を。
『多くの人は、良くなりたいと願いつつ、その願いを育てていない。私にはできないとか、私はだめだとか、その願いを殺してしまう。願いを殺すことは自分を殺すことである。実行である。一途なる実行である。行いつづける一念の生活が、自己の運命をつくるのである。これがヨギの生き方である。健康と幸福の基礎は心力と体力である。心力と体力をじゅうぶんにすることに真剣になろう。自分の中に力を養いさえすればかならず夢(願)は実現するのである。
』沖正弘
学校教育における武道必修化に先立って、まず国家のイデオロギーに左右されない、合気道のもつ固有の精神性を明確に打ち出すこと。
それは国家の思惑に毒されないための大前提となる。
より良く生きるための、または情操教育としての側面を持つ合気道は、スポーツ化、競技化を押し進めた他の武道と同一視できない。
スポーツ化、競技化するということは、試合において勝つことが目標とされるということだ。
そのための練習というのは、試合を模したもの、つまり乱取りに偏重する。
一方で合気道で行われる形稽古の本質は、技と身体を練ることにあって、取りと受け、師と弟子との間での共感や同調、一体化というプロセスを経て達成されるものである。
我を強固にし、他を圧倒することを旨とする前者。
我をなくし、他と共鳴することを旨とする後者。
同じ武道の名をもってして、正反対の性質を帯びることを理解し、その差異を明確に喧伝していくところに合気道の希望的な展望が開けるのではないか。
いまだに、形稽古の意義も知らずに、他を痛めつけ、駆逐せんとする稽古を行う者がいる。
もはや合気道ではない。
性癖を押し付ける一方的で卑劣な陵辱行為であって、同時に先人の築き上げた叡智を踏みにじる愚行である。
指導者の資質も、その一点に尽きる。