スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
大切なお客様をお招きするとき、整理整頓、掃除を行き渡らせ、はきものを揃えるのに、道を求める者、自らの身体に無頓着なのはどういうわけだろう。
放埓な食生活で腸内を腐敗させ、悪臭漂う大便や屁を物ともしない。
血液の粘度を高め、血流を滞らせ、筋肉を固くさせ、神経の疎通を悪くして、動きを制限しているのにも気づかず。
病気や怪我をして、なお改めず。
「自分の体は所有物である」という意識からくるのではないか。
そして、それを自らの意識だけで、物のように自由に操作できるものと信じているようである。
あまりに内部感覚に疎く、感覚の細分化を怠った粗雑な思考様式と言わざるを得ない。
動きにこだわるとして、それはそれ以前の生活習慣、身構え心構えの集積として立ち現れてくることに気づかなければならない。
健全な呼吸、消化、吸収の上に、円滑なエネルギーの産生があり、そして神経系、内分泌系、筋骨格系の総和が、一挙手一投足として現れてくる。
内部感覚の細分化を怠り、意識で捉えられる末節の動きばかりにこだわっていては、その言葉のとおりコダワリは心身のコリとなって、ますます本質的な動きは見出されない。
「自らの身体は預かり物である」
そして、我が身を神殿に変えることを「道」と呼ぶに違いない。
神をお招きし、神が宿るにふさわしい心身をご用意させていただく。
これが「ミソギ」の真意に違いない。
鍛え上げた肉体美を鏡に映してほくそえむのに似て、自らの肉体を所有化し、それを意のままに操ることを旨とするあり方は、ミソギと対極にある自己顕示欲の暴走でしかない。
神はますます遠ざかっていく。
我を強めていった先にあるものは、焦りと恐れと傲慢である。
自神喪失。
弱い犬ほどよく吠える。
他を見下す優越意識、「教えてやっている」というごり押しなど、まったくありがた迷惑、犬も食わない。
我を手放していった先にあるものは、安定とやすらぎである。
「させていただく」という下座心、預かり物を大切にするという宗教心。
調心、調身、調息、すなわち三密の実践。
そこに自然な敬意を集めるのであって、押し付けがましい説教や、強圧的な態度は、内面の空虚さと粗雑さの表明でしかない。
純粋に道を求め実践を積んでいけば、本物と偽物の違いくらいわかっていいはずだ。
「神とともにあれ」
少なくとも「求道的である」ということは、こういうことではないだろうか。