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全身真っ赤に晴らし、血がにじんでいる、アトピー性皮膚炎でしょう。
ぐずってかきむしるその手を、お母さんが何度も何度も皮膚から離し、真っ赤に血のにじむところをさするように、時にパタパタとはたき、皮膚を傷つけないように、かゆみが少しでも緩和するようにしていました。
赤ちゃんの顔は真っ赤に腫れ、まぶたもむくんでいました。
「まだ小さいのになんでこんなにも苦しい思いをしなければならないのだろう」
人生の不条理を感じざるを得ませんでした。
生命の働きである免疫機能が何かと必死に戦っているのです。
その反応は激烈で周囲の大人たちに何かを強く訴えかけているようにも見えました。
つい先日も自然食レストランでのこと。
二組の親子。
いずれも数ヶ月の赤ちゃんを連れたお母さん。
一人の子は、無邪気にはしゃぎながら、お母さん持参のジュースを飲んでいるように見えました。
もう一人の子はお母さんに抱かれたまま動いていなかったので寝ていたのでしょうか。
そのお母さんが店員に「今注文した料理に小麦粉は入ってますか」とたずねました。
「いえ、使ってませんよ」との答え。
自然食レストランだったので、食材に関しては目が行き届いているのでしょう。
ところが数分後、店員が飛んできました。
「しょうゆ、もしかしたら入っているかもしれません。」
和食で小麦を使うことはまれだが、しょうゆに入っているというの盲点です。
お母さんは「少しくらいなら」と言うが、どこか心配そう。
お母さんと店員の会話をよくよく聞いてみると、その子供は小麦、乳製品、卵のアレルギーとのこと。
その組み合わせ、まさにスイーツ、洋菓子、パンだと気づきました。
「母原病」という言葉がよぎります
乳幼児期は腸が未熟なため、高たんぱく質の食材がまれに消化できずアレルギーを誘発することがあります。
それでもアレルギーになる子とならない子がいるという事実は、遺伝的な要素があることを示しているのでしょう。
食べ過ぎるとアレルギーになるというのは、僕自身幼いころ経験したことがあります。
干しぶどうを食べ過ぎたのです。
お菓子よりは体に良いだろうという親の配慮であったか、僕自身の嗜好で食べ始めたのかは記憶が定かではありませんが、なにしろクセになるものですから、毎日相当量食べていました。
好物の干しぶどうでしたが、ある日突然、口の周囲にじんましんが出て、それ以来まったく手をつけなくなりました。
生命の法則として、同一の刺激が大量に繰り返されることを嫌うのでしょうか。
アレルギーという形で身体症状を発症させます。
いずれにしても、過剰が招く害。
我々は家庭の中で、食事に対する実践的な教育というものを受けてきたでしょうか。
受けられたのであれば幸せなことだと思います。
しかし、昨今、核家族化が進み、親の世代も両親、祖父母から連なる伝統的な知恵から断絶しているので、生活に直結した知恵というものが薄くなりつつあります。
学校教育においても食育というのは最近こそ言われ出しましたが、家庭科でちょっとした料理を作るか、栄養素の計算ぐらいのもので、本当に大切なことを教えられてこなかったのではないかと思います。
僕自身、ご多分に漏れず典型的な現代人として無知無教養から放埓な食生活になんの躊躇もなく過ごしていましたが、幸か不幸か、もともとさほど体質が強くなかったおかげもあって、早晩不調を感じるようになって、真剣に勉強を始めるようになりました。
ある時期になって気づき、生活全般を変えていければ、それに越したことはありませんが、不調を感じることなく、または感じてもそれを無視して突き進むのであれば、さまざまなところでひずみが出てくるのでしょう。
子供たちの先天的な病気は、胎児期の母体の影響を色濃く受けるので、母親にもその責任の一端はあるのでしょうが、その全責任を母親一人に還元するわけにも行かなくなってきているが現代の特徴ではないかと考えます。
妊娠する前から用意周到に勉強し、体質改善に取り組むのならいざ知らず、知識も実践も体質も不十分なまま妊娠に突入する場合が多く、街中で見かける妊婦の体型やファッション、食生活に驚かされることが多いものです。
しかし、これは個人の問題と同時に社会全体の問題でもあるのではないでしょうか。
化学物質の危険性を顧みず粗製乱造する生産者がいて、ただ安ければよいと質を問わずに買いあさる消費者があります。
スーパーにはそうしたものしか並んでおらず、好むと好まざるに関わらず自然食とはかけ離れた、きわめて人工的な加工食品で腹を満たす。
テレビCMや雑誌など情報媒体は購買意欲を刺激し、好きなものを好きなだけ食べることを幸福の条件のように誤解させています。
妊娠、出産に限ったことではありません。
生まれてから与えられる食事の内容も、どれだけ親の愛情が反映されているでしょうか。
つい昨日ニュースで、口の中にパンを詰め込まれて窒息死した子の報道があった
親による虐待死です。
まったく言語道断の悪意ですが、感情にまかせて衝動的な行動に出た原因に、ミネラルやビタミンなどの神経伝達物質に関わる微量元素の不足が食卓で起きたのではないかとかんぐってしまいます。
きっと詰め込まれたのは菓子パンでしょう。
それがおにぎりだったらまだ食卓は健全で、こんな結果にならなかったかもしれないと。
子供の病気を単に親からの遺伝であると決めてかかるのは早計だと思いますし、多かれ少なかれ胎児期と育児期にまたがる親としての後天的な自覚によるところもあるでしょう。
さらには社会全体の業を背負って血をにじませている子供たち、という視点も欠かせないでしょう。
その幼い子のたよりなげな肩に背負うには、甚だ大きすぎる苦しみが、決して無駄にならないために、大人たちは本気で行動に移さなければならないでしょう。
ある意味、今を生きる大人たちも一方で被害者かもしれません。
歴史をさかのぼって誰かに責任を押し付けても解決する問題でもないでしょう。
それならば、前向きに、親子以前に痛みを分かち合える人間同士として、互いに時に苦しみ、時に喜びながら、一歩一歩前進していきたいものです。
便利さをきわめて、失ったものは限りありませんが、愛するわが子にそれが及んでは、もう後ずさりすることはできないでしょう。
泣きはらした目の奥で、その子は、その生命は、何を訴えているのか、真剣に考えていこうではありませんか。