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これは殺人行為ではないでしょうか。
加熱用の肉と認識した上で、それをユッケとして提供した。
ここで浮かび上がってくる問題は二つ。
ひとつに、獣肉を生で食べることが、日本人の食性にかなっているのかどうか。
もうひとつに、現代社会の商業主義への疑問です。
食性とは、その動物が食物を摂取する行動の特徴を現すものです、人間以外の動物では肉食性、草食性などかなり色分けができるものです。
ところが人間は雑食性とも言えますが、思考の幅と比例するように、食物のバリエーションも他に類を見ないものです。
豊かな食生活が人間を人間足らしめる複雑な思考を裏打ちしているとも考えられますが、一方で生物としての生理的限界もあるわけで、避けるべき食物由来の毒物が出てくるのは当然でしょう。
毒キノコの類やふぐの卵巣、ジャガイモの芽などは一般に避けられているものです。
獣肉に関しても、その過食が動脈硬化や高脂血、高尿酸など生活習慣病の原因とされて久しいです。
何をどのくらい食べるのが人間にとって理想的であるか、食事療法の世界でも議論は止みませんが、一般的に歯の構成を観て食性を割り出すということがされています。
人間の歯は全部で32本、そのうち臼歯が20本、切歯が8本、犬歯が4本。
臼歯は文字通り臼(うす)の形をしていて、ごはんや豆など穀物をすりつぶすのに適した形です。
切歯は菜切り包丁のような形をしていて、野菜をこまかく切断するのに適した形です。
犬歯は先のとがった形をしていて、肉や魚を噛みちぎるのに適した形です。
これを総合すると、穀物60%、野菜・海藻25%、魚介類・肉類15%が人間の身体を形作る上で望ましいということになるのです。
さて現代人の食生活はどうなっているでしょうか。
生肉に関して言えば、新鮮さが求められ、調理の段階でも細心の注意が必要とされています。
粗製濫造、コスト追求の時代に、設備費や人件費のかかる生肉料理を廉価で食べようということ自体に物理的な無理があるのではないでしょうか。
つまり、生肉はその他の加熱料理に比べて、かなり限定的に食べるべきと考えるのが自然ではないかと考えられるのです。
もうひとつの問題として、現代社会の商業主義への疑問を挙げましたが、その最たるものが「総シロウト社会」に対する不安感です。
一昔前は、買い物といえば、商店街に出かけ、米屋、八百屋、魚屋、と個人経営の店を回り買い求めたものです。
それぞれの専門性がはっきりとしていて、仕入れから販売までこなすので、売り物に対するこだわりや知識というものがあって当然でした。
客とのやり取りにも、その商品に対する愛情をにじませたり、客の質問に薀蓄を傾けるだけの愛着と知識量はあったはずです。
翻って、現代の商店の事情をのぞいてみると、チェーン展開、多角経営です。
やり手の経営者が、お金になると思われる市場に無節操に進出して、システマチックに経営していく。
スタッフの大半は人件費削減のため、アルバイトやパートが雇われ、高度に分業化された上に、マニュアル化された単純作業を行えばよいだけになっています。
そこにかつて個人商店が持っていた志や愛着、知識量が醸成されるでしょうか。
たとえばチェーン店に出かけ、そこで商品に対して微に入り細に入った質問をしたら、単なる迷惑な客としてあしらわれるのがオチでしょう。
商品を注文して、それをただ提供される無機質なやり取りが繰り返されるばかりで、口に入る肝心な商品を介しての丁々発止のコミュニケーションがないというのは、身体衛生上やはり不健全といわざるを得ないでしょう。
自分の口に入るものであれば、それがどのようなものであるか精査し、吟味した上で頂くのが生物として本来ではないでしょうか。
野生動物であれば、慎重に見て、匂いをかいで、触ってみて、と近所の犬猫だって行っていることです。
話を戻せば、日本の産業構造を含めて、そうしたその道のプロフェッショなるとは言えないアマチュアの上に立った脆弱な社会であるということです。
卑近の原発問題も人災の側面が強くなってきましたが、ある意味同根とも考えられないでしょうか。
今回は食を取り巻く問題が露見したわけですが、富裕層はともかく、庶民層、社会的弱者に実害が及ぶようになってきたのが現況ではないかと思うのです。
一刻も早い街場の職人魂の復権が求められています。
それは言わずもがな、現代の産業構造をひっくり返すことです。
今までならそれは無謀な提案だったかもしれません。
しかし震災後、価値観が大転換しました。
何が本当に大切なのか、まざまざと見せつけられました。
この日本社会に巣食う原理が、食欲、物欲、性欲に基づいた利便性、機能性、経済効率である限り、被害者はさらに増え続けることでしょう。
日本の復興はこれからです。