この春を迎えると、合気道を始めて丸10年の節目となる。
思い起こせば、高校の仮校舎の体育館で手取り足取り教えてもらったのが初めての稽古だったか。
先輩の小手返しの激痛に手首を押さえながら目を白黒させていた頃が懐かしい。
今よりもずっと華奢だった僕は今と変わらない4号の胴着がなんと頼りなげだったか。
昨日のことのように思い出され、またはるか昔のことのようにも感じられる。
先日先生と話すことがあり、そこで「合気道始めて10年になります。」と言ったら、先生は黙って遠くを見る様な目をしていた。
しばらくの沈黙の後「そうか〜」
先生と僕の脳裏には同じ月日が去来していたに違いない。
旧校舎の道場、一段高い入り口を上がると右側に神棚があった。
格子の窓からは千鳥が淵の緑が眩しく、吹き抜ける風に何度救われたことか。
この年月にはいろいろなことがありすぎた。簡単に言葉にはできない。
「一芸十年」という言葉があるが、果たして僕の技は合気道と呼ぶにふさわしいものになっただろうか。紆余曲折を繰り返しながらも肩の力がふっと抜けたのはごく最近になってからだ。
今年の春合宿のビデオを拝見して、同期のたけちゃんの技に目が留まった。
まさに同じ釜の飯を食ってきたかけがえのない同志だ。
その技はまったく気負いを感じさせない。「同じだ」と思った。
普通の人から見ればキャリアにふさわしい洗練された技と見るだろうか。
僕が見るとお互いに「超えたな」という印象なのだ。
これからこの道にいくつ「超える」ことがあるかはわからないが、現時点で確実に他とは違う境地にあることがうかがい知れた。
それはことごとく「理合」をおさえながらも一切の執着のない姿だ。
合気道は「与える武道」だと偉い先生は言っていた。
多くの人には外見ではわからないかもしれない。
でも僕は感じた。これが10年の凄み。
つくづく稽古はうそをつかない、時間は夢を裏切らない、と思った。