土木工事はしたくない。指圧の世界に身を置いて痛烈に感じることだ。一方で治療効果のためには手段を選ばない向きもある。客商売という側面から見れば一定の治療効果を示さなければ存続が危うい。それは十分理解している。しかし治したいという気持ちのあまり大局的な視点が失われていくことに違和感を禁じえない。治療効果というものは短期的なわかりやすい現象と長期的で根本的な目標とを弁別すべきだ。これを説明できる治療家が本物だと僕は思っている。短期的な現象を追えば、徹底的に局所にこだわるやり方も有効だろう。しかしそれは往々にして一時的で、不自然なものとなる。患者さんをだましているだけだ。人のからだに対する向き合い方は、いつまでも人のこころに接するようでありたい。からだを部品として捉えているうちは本当の治療にはならないと信じる。
目の前にある身体こそ、その人である。治療家といえども一人の人間に対して当然ながらできることはできる、できないことはできないのだ。さらに最終的にはご本人に任せるほかない。それは教育も同じ。最後に任せられることができるか。それはよほどの実力と人間的な器なくしてなしえない。狭小な者ほど物事に固執するものだ。真理を理解すればおのずと答えが見つかる「天は自ら助くる者を助く」なのだと。「指圧は芸術である」という言葉がある。科学的、臨床的に突き詰めたい人からはなんて馬鹿げた言葉なのだと揶揄される。僕はそうは思わない。二人の間で、新しいものが生み出されることなくしてお互いの心身に変化が起きるだろうか。その一押しに人間を突き動かし、揺さぶる愛がなければ、たとえ痛みが取れたとしても癒されたことにはならないだろう。こう考える僕は科学的、即物的であることが求められる現代において時代錯誤と言えるかもしれない。それでも僕は自分の内から沸き起こる使命にも似た感情に背くことはできない。たとえその道が孤独であろうとも、芸術家であり続けることが僕にとっての最高の癒しなのだ。
野口三千三曰く『地球上でのからだの動きの原動力は、からだの重さが筋肉の収縮力よりも、より基礎的で重要なものである。重さは意識しようがしまいが、望もうが望むまいが、たえず地球の中心の方向へ働きつづけている。重さがあってはじめて動きが成り立つのである。』
不快な指圧がある。それは指に力を入れてコリを目の敵にするやり方だ。その痛みに身体はますますこわばるばかりで心の休まる暇もない。術者の指が痛むのも時間の問題だろう。指はやわらかく体表に触れ溶け込むように身体の重さに任せてみる。その圧はじんわりと深部に到達する。お互い持ちつ持たれつ支えあう姿を表現する「支え圧」それこそが本物の支圧(シアツ)に違いない。
それではコリをほぐし全身の柔軟性ひいては健やかな心身を目指すための新たな理論とはなにか。「重さ」と「ぬくもり」の二つのキーワードを挙げたい。
『重さに由来するやわらかく持続的な非侵害性および副交感性の刺激を体表から与えることで脳を介して副交感神経に傾き全身の筋トーヌスを下げていく』
『肌身のぬくもりによって母の胸に抱かれたような、または愛し合う二人が寄り添った時のような幸福感を分かち合う』
合気道家だからこそ見えることがある。物質的価値観の瓦解し始めた現代。指圧も例外でなくいたずらに身体をモノとして扱わない。粘土細工、土木工事からの脱却。心身を包括する指圧の本当のあり方に施術者も受け手も気付く時に来ているのかもしれない。