日本のサンクチュアリ!京都のパワースポットを巡りエネルギーを充填してきました。
なかでも傑出していたパワースポットは比叡山。
最澄の開いた延暦寺は天台宗の本店ですが、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、日本仏教史上著名な僧を輩出した日本仏教の核心とも言える場所で、他とは一線を画す鋭い霊気が漂っていました。
そこでしきりに目にする言葉がありました。
「一隅を照らそう」
帰って来て調べてみると、最澄の教えである「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」を現代的にアレンジした「一隅を照らす運動」(http://www.ichigu.net/digest/text.html)が展開されていることを知りました。
「一隅を照らす」とは「今、置かれている場所や立場でベストを尽くす」ということ。
僕は今まで対象に主体的に働きかけることが「一隅を照らす」ことだと思っていました。
いわばスポットライトで照らしてあげることだと。
しかし良く考えてみると、それはまぶしいだけで迷惑なのかもしれない。
その本人が欲していなければむしろ反発しか招かないのではないかと。
「一隅」とは「まずは自分」なのだと気が付きました。
自分が輝く。
それを見るのも見ないのも人の勝手です。
チラ見でもガン見でも知ったことじゃない。
でも確実なことは近くに居れば自然と照らされてしまうということです。
同時にそれは稽古に限られることではないと思いました。
一隅というのは頑なにこだわることではないはずです。
一隅という限定的なニュアンスはむしろ各人の自由性を示唆しているものではないか。
カタチにとらわれることはないでしょう。
目に視えない想いでもいいはずです。
自分の得意なことで一隅を照らせばいい。
そして「一隅を照らす運動」には「実践3つの柱」がありました。
「生命」あらゆる命に感謝しよう
「奉仕」ありがとうの心で行動しよう
「共生」地球に優しい生活をしよう
これは僕の考える合気道そのものです。
「生き残るため」から「より良く生きるため」へ
「自己顕示欲と征服欲のままに人をモノのように投げる」から
「愛(共感的想像)と感謝を込めて天地自然の理を互いに体感していく」
強制しなければならない合気道には人間の根源的な苦痛が伴っているのです。
つまり柱なき合気道。
今夜酒を酌み交わしていた中華屋の有線から「カブトムシ」が流れてきました。
悩んでる体が熱くて 指先は凍える程冷たい
「どうした はやく言ってしまえ」そう言われてもあたしは弱い
あなたが死んでしまって あたしもどんどん年老いて
想像つかないくらいよ そう 今が何より大切で・・・
スピード落としたメリーゴーランド 白馬のたてがみが揺れる
少し背の高いあなたの耳によせたおでこ
甘い匂いに誘われたあたしはかぶとむし
流れ星ながれる 苦しうれし胸の痛み
生涯忘れることはないでしょう
生涯忘れることはないでしょう
鼻先をくすぐる春 リンと立つのは空の青い夏
袖を風が過ぎるは秋中 そう 気が付けば真横を通る冬
強い悲しいこと全部 心に残ってしまうとしたら
それもあなたと過ごしたしるし そう 幸せに思えるだろう
息を止めて見つめる先には長いまつげが揺れてる
少し癖のあるあなたの声 耳を傾け
深いやすらぎ酔いしれるあたしはかぶとむし
琥珀の弓張月 息切れすら覚える鼓動
生涯忘れることはないでしょう
生涯忘れることはないでしょう
彼を亡くした歌だと今の今まで気付きませんでした。
まさにその話題中の出来事=シンクロニシティ
神さまは僕に何を教えたがっているのか。
あらゆる命に感謝しよう
ありがとうの心で行動しよう