年上が後輩になる。
学生時代にはあまりなかったことが、職場では頻繁に起き得ることだ。
必要な指導もなかなか躊躇してしまうのは、年齢という封建的な呪縛に苛まれているからだろうか。
“腹を割って”“胸襟開いて”そんな理想的な人間関係がある。
かねてから僕は礼儀というのは人と人との精神的な距離だと言ってきた。
礼儀を重んじるということは距離を遠ざけるということだ。
当然その人間関係は希薄になる。
敬語は関係性を規定する、と言い換えることもできるだろう。
語彙は制限され、フレキシブルな活用も困難になる。
だから敬語を使わなくても違和感のない関係こそ親密にして信頼を寄せる関係といえる。
家族がその典型だ。
20〜30才離れた両親、50〜60才離れた祖父母でさえも気兼ねなく丁々発止言い合える関係。
特に語尾の繊細な情緒を含みこんだ効用は、日本語を母国語とする日本人に生まれたからには活用しないのはもったいない。
一期一会、豊かな可能性を幻想に過ぎない固定観念で狭小なものにしていいものか。
偏見を恐れず僕は高らかに叫んでみる。
年齢は幻想だ!
年齢相応に徳を積み円熟味を増す人もいる、一方で利己的、稚拙に終始する人もいる。
反対に若くても人徳のある人はたくさんいるだろう。
結局はその人間そのものを見る眼。
人間力、たましい、と換言できるかもしれない。
どんな人でも、偏見やレッテルを排して本当の自分を認めてほしいと願うのではないだろうか。
それとも学歴や肩書き、所属、で判断されたいと思うか。
「人を集める人と、人が集まる人の違い、ギラギラとキラキラ」
僕はキラキラでありたい!