食べまいとするほどに食べたくなる。正直なところ小食を志向してから食欲を抑えられない自分を発見した。からだの欲求を抑制するとかえって増幅してくる。そんな自分に嫌悪感すら抱き、どんどん卑屈になっていく。
頭ではわかったつもりでいても、まだ心が追いついてきていないのかと思ったりする。こびりついた習慣というのも恐ろしい。
しかし「安くたくさん食える環境」というのも食糧事情の悪化で次第にかなわなくなってくるのではないか。地球人口の増大、資源の枯渇などその前兆はすでにあるが、いざ否応なく身に迫ってきた時、いかに意識改革できるか。各人の真価が試される時だと思う。
悶え苦しみ、地べたを這いずり回って、略奪と闘争に生きるのか。小食の実現によってさらなる霊性の向上を果たせるのか。
現代日本の食生活も日本人が背負ったカルマだろうから、慢性病や生活習慣病、一切を引き受けて生きていくことにも学びはあるだろう。
「食養地獄」と呼ばれる、あれもダメ、これもダメ、これじゃなきゃダメと、どんどん狭小になっていく状態がある。強硬な玄米食で消化不良に陥り皮膚は黒ずんで痩せ細り、さらに狡猾に求めて、いつしかきつねのように目がつりあがり、人を寄せ付けなくなる無間地獄。
しかし、厳然として「食べすぎ」の現状は否めない。僕のように「やせすぎ」の人が、小食と断食の実践で体重増加を果たした事例がある。つまり無自覚の食べ過ぎにより慢性的に弱った消化器は食べた分のほとんどを消化吸収できず排泄しているということだ。断食によって休養を与え消化器が本来の能力を取り戻すと今までよりもはるかに少ない量でも最大限に吸収することができるようになった。ということは、今まで食べていた大半の食物を無駄にしていたのだ。これほどの資源の無駄使い、環境破壊があるかという話。
禅では寺院の役職で典座(てんぞ)というのがある。今でいうところの炊事係で修行僧の食事や仏や祖師への供膳をつかさどる役職。一般に「飯炊き」「裏方」などと呼ばれ低く見られがちなのだが、禅宗では調理、喫飯も重要な修行の一つとされ、人知れず徳行を積むことから重要な役職とされているそうだ。
典座には修行経験が深く篤実温厚な人物が任命される場合が多く、修行僧たちの相談役として敬慕される者が多いという。
人間は食べずには生きていけない。この事実こそ「食養」が根本であることを示している。それ以外のいかなる「自己啓発」も枝葉末節ということでもある。突き詰めていくと食にぶち当たる。宗教も、養生しかり。