一ヶ月前からの左背部痛を訴える患者。
院内に入ってくるなり派手によろめいたので面食らったが、息を切らしているのをみると急いで来たからだと納得した。
気を取り直して問診を始めた。主訴について詳細に尋ねている最中、僕の左背部にビリビリと痛みが走った。つい手をやってしまうほどの不快な痛みが継続して続いていた。
「これは邪気を引き受けちゃったかな」
体調の悪い患者、かなり衰弱の激しい患者の場合、触れていると頭痛や吐き気に襲われることがたびたびあった。
しかし僕は治療家が患者の邪気を引き受けるという説には否定的だ。
善意やポジティブなエネルギーで事を成す限り低次の波動を引き寄せるはずがないという確信があるからだ。とはいえごまかしの利かない吐き気に襲われる時、そんなこともあるのかと思わなくもない。野口晴哉しかり、増永静人しかり、天才的な治療家の命は短い。
それは何を意味するか。治療行為それ自体に還元できるものではないと信じたい。むしろ類稀な才能ゆえの殺人的なスケジュールと献身的な治療によるものと解すべきだ。
施術後、最近バランスを失いよろめくことが増えたことを打ち明けられた。
何か全身的な失調、もしくは心と体を包括する大局的な因果が隠れているのかもしれない。
継続して来られるという。
胸元に光る髑髏のネックレスを僕は見逃さなかった。
どんな病気にも必ず原因がある。
治療家と患者の出会いにも必ず意味がある。
指圧はすべて“気の滞り”すなわち病気を治すのが目的であって、固い筋肉とか充血とかを圧刺激で緩解するのが目的ではない。だから力で押してはいけないのであって、患者が自分で気のコリをとってゆくようにしないといけない。コリは「そこにコダワっている」のだから表面には見えない。その深部のかたくなな気持ちをほぐすように、おさえてゆかぬといけないのである。表面から見える陽、すなわち実の部位は誰にでもわかるし、患者も他人に見せてよいところなのである。ところが、それは結果なのであって、原因は見えない深いところにある。そこから治さないと病気は根本的に治らない、というのが私が東洋の陰陽思想から得た結論である。 増永静人