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とある芸能人の発言が物議をかもしていますが、その内容が伏せられたまま抹殺されていく姿はどこか薄ら寒い気もします。
一方で「想い・言葉・行動」が厳格に問われる時代が訪れたのだと痛感します。
800年周期で巡る陰陽の「陰(精神性優位)の時代」とも言われますが、目に見えない心や波動といった視点の復権が行われるのでしょうか。
つとめて前向きな言葉を使う。
すると行動や想念にも派生していくものです。
出かける相手にかける「いってらっしゃい」
「行って」=Goなのはわかっていましたが「らっしゃい」=Comeなのですね。
「ちゃんと無事に帰ってくるように」との祈りと確信が込められています。
つくづく日本語の繊細さ、古き良き日本人の感性と思いやりいたわりの心がにじみ出ていると思うのです。
これからも受け継ぎ遺していきたいものです。
「ありがとうございます」
「有り難し」=「滅多にない」「珍しくて貴重だ」という語源ですが、生きているということは必ず他の犠牲の上に成り立っていること、そして「おかげさま」で生かされているということを端的に表現する言葉ではないでしょうか。
「ありがとうございます」という言葉を発しているうちに、おのずとその想いは潜在意識に刷り込まれ、仏教で言うところの「下座心」を涵養できるはずです。
沖正弘はこう言っていました。
「健康を保つ秘訣」=「体をやわらげ、心をやすらげ、生活や仕事を楽しむことである」
心をやすらげる為には、感謝をし、懺悔の心を持ち、下座心になることが大切です。
御恩を感じ、おかげを感じ、ありがとうございます、すいません、おかげさまで、という心になれば誰でも心はやわらいできます。
下座道
懺悔道にはいるためには、下座道の心が必要です。
あなた方が上座道におるかぎり絶対懺悔心はおこりません。
恩を売る心は上座の心です。無理にこうなって欲しいと思うのも上座の心です。
お詫びとおかげを感じたら、そのプラスに対して、お返しする、マイナスの生活をさせていた
だきますが必要です。
この心が下座奉仕の心です。
下座道に入る第一の練習は、馬鹿になりきる練習をすることです。
下座道の反対をやくざ道といいます。
恩義や義理や人情を相手に売ったり、押しつけたりして、おれがこうやってやったのにと脅迫することをやくざ道というのです。ほとんどの人の心がやくざ道の心です。
僕は最近「合掌」をするようにしています。
ご飯をいただくとき「いただきます」「ごちそうさま」
こころとからだはひとつです。
ヨガを指導していても思うのですが、手を合わせるだけで「敬虔な気持ち」になるのが不思議です。
イマドキの若者でも、合掌するその瞬間はたましいに刻まれた気高い精神性を垣間見せます。
物事を行うコツ
物事を行う場合、楽な呼吸、深い呼吸、完全な呼吸で始めることが大切ですが、
そのコツは合掌です。
合掌すると、胸が広がり、下腹に力が入り、浅い呼吸が出来なくなります。
最初はカタチだけでもいいのでしょう。
段々とカタチに想いが込められるようになってきます。
言葉・想い・行動
いずれも影響し合いつらなっています。
今日を限りに否定的な言葉を使うのはやめよう。
かっこよく生きるんだ。
世間を見渡し、愛し合う二人をつぶさに観察してみると、「釣り合っている」という思いを強く抱きます。
会話の内容が如実です。同じ趣味、同じ次元、同じテンポ。
惹かれ合うということは、お互いに極めて近似した要素が感応し合うのでしょう。
それを波動とか波長の共鳴、同調と表現するのでしょう。
ところが本質は肉を分けた他人同士、次第に違いが表れてくるのが現実です。
それは些細なことかもしれません。決定的なことかもしれない。
そこで「受け入れられない」ことも当然起こりうることです。
それが「二人の別れ」という必然的な結果です。
これは何も珍しいことではない。
世界中で今この瞬間も何千何万というカップルがやっていることです。
それは出会った当初の波長で釣り合っていたものが、時間の経過とともにズレが生じてきたと見ることができるかもしれません。
相手に対して「違い」を感じたとき、相手を変えようとすることは、経験上うまくいきません。
自我をむき出しにして相手に対するとき、それは鏡のようになって返ってきます。
同様に「違い」に反発や嫌悪感を抱き始めれば、それも波動として十分に伝わり「負の想念」が返ってきます。
これは諸事万般に言えることで、昔から「地獄極楽胸三寸にあり」自分の心持ち次第で世界の受け入れ方が良くも悪くも変わるという経験則です。
「ありがとう」は「ありがとう」で返ってくる。
相手を「受け入れる」ということは、自分を「受け入れてもらえる」ということに他ならないでしょう。
「全肯定・全活用」は自虐的、退廃的な苦行のように思われがちですが、長期的なスパンで理にかなっています。
二人の「差異」は乗り切れるのだろうか?
僕は「時間の経過とともに進化し合う二人」という観点を持ち続けている間は、その可能性は残ると考えています。
つまり今は受け入れがたい「差異」があっても、当面受け入れているうちに、どちらかもしくはお互いに必ず変化が起きると信じ続けるということです。
実際、変化は起こります。
それが「受け入れ方」かもしれないし、「差異自体がなくなる」ことかもしれない。
ゴールの見えない暗闇を走るのは恐ろしいことですが、その先の光を信じて歩むことは心強いことです。
光が見えないこともあるでしょう。
それならば、はるか遠く先にあるゴールを望むのではなく、すぐ近く足元にある光を積み重ねていけばいいのではないでしょうか。
日常の小さな出来事一つ一つに光を見出すわけです。
今日もたくさん違いがあったけど、お昼ご飯に注文した料理が一緒だったというような些細にして、心がほっと温まる喜びです。
今僕にはお付き合いしている人がいます。
世間から見ればただでさえ偏屈な世界、お互いに頑固で偏屈な人間です。
共通した面もたくさんあったから今こうしているのでしょうが、一方でその偏屈さゆえ決定的な差異、許しがたい差異があるのもまた事実です。
しかし、神様が与えてくれた縁。
たくさんの差異の中でお互いに折り合いをつけていくのが、これからの人生の課題なんだと腹をくくったところがあります。
もう若くないことですし。
「少しのことじゃ動じない」今までの僕にはなかった心境です。
謙虚に自らの「了見の狭さ」を直視して生きるということでもあります。
もし今後、決定的な差異に直面して、別れを選んだとき、その選択はどのように解釈すればよいか?
それはお互いにとって前向きなステップアップかもしれない、同じ過ちの繰り返しかもしれない。
いずれにせよ「全肯定・全活用」する姿勢は崩さないことです。
周囲を見渡せば比較的「全肯定」する人は多いように思います。
「これも運命だから」と神秘的な好奇心で対峙する昨今のスピリチュアルブーム。
しかし、肯定することだけで終わってしまった場合、また同じ過ちを繰り返さないとも言い切れません。
同じようなシチュエーションがまた神様によって早晩与えられるのがオチでしょう。
たとえば手袋をしないで鍋をさわりやけどしたとする。
親に「手袋しないからやけどしたのよ」と叱られる。
「叱られたのは当然、自分の行いの必然的な結果だ」と肯定するまでは良しとして。
次の機会にも手袋をせず鍋をさわればまたやけどをするわけです。
肯定だけにとどまらず、その事実をいかに活用していくか。
この例で言えば、鍋をさわるときは手袋をはめる習慣を作るということです。
この当たり前のことが、人生のあらゆる局面で行われないのは、これもまた人生の妙味と言えば救われるでしょうか。
ブッダは解脱したと言われますが、何から抜け出したかといえば、まさにこうした瑣末な事象にもつながる「因果応報」の世界ではないでしょうか。
輪廻の輪から抜け出した。生まれ変わりの連鎖から抜け出るということは、「全肯定・全活用」の究極の境地と言えないでしょうか。
神様が与える「学ぶべき機会」すべてを本質的なところでクリアしてしまったということです。
それはさまざまな苦行、荒行の成果でしょうか。
僕はいかにも庶民的な人間関係でも、それはかなえられると思っています。
なぜなら人間は「違いから学ぶ」ことしかできないからです。
「わかる」ということは「差異を区別できる」つまり「分けられる」ということです。
自分と相手に「差異」は必ず存在します。
それはまったく絶望的な現実でしょうか?
差異の中で見出す喜び、差異を乗り越えていく喜び、そして一体となる喜び。
一生「差異」を感じ続けるかもしれない、若いうちは特に目くじらを立てて怒りに打ち震えることもあるかもしれない。
でも段々と年を重ねていくことで人間的に丸みを帯び、二人の差異もこなれて角を落としまろやかになってくれば、「わが人生に一片の悔いなし」の境涯も訪れるかもしれない。
人生は究極的に「苦」だ。
ブッダの言だが、二人の間に「苦しみ」などありえないと目をつぶるよりも、「苦しみ」があって当然と構えていたほうが、些細なことでもこの上ない喜びにつながるのではないでしょうか。
みんな「ただいま修行中」みんな「孤独と隣り合わせ」
だから愛し合うんだな。
受け入れてほしくて、認めてほしくて、ひとつになりたくて…