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ケーキを焼いてみました。
卵、牛乳、バターなどの動物性、グラニュー糖や上白糖などの精製糖は一切使っていません。
ひとつはプルーンとクルミを練りこんで、ふたつめはリンゴ丸ごと一個をさいの目切りにしてゴロゴロと混ぜ込みました。
国産の地粉にリンゴジュースとみりんで甘味をつけ、菜種油でなめらかに。
180度のオーブンで30分、ぷ〜んといい香りが漂ってきます。
自然の甘味を存分に味わえるケーキができました。
噛めば噛むほど味が出てきます(作り手と同じだな!)
今度うちに来た人にご馳走しま〜す!
エドゥさんが我が家にお泊りに来ました。
都会の喧騒を離れ自然と触れ合いたいというご要望。
伊東駅にドッペルゲンガー的な到着をされ、その足で城ヶ崎へ。
伊豆特有の断崖絶壁の海岸線です。
エッジを果敢に攻めていきました。
まだまだお互い若い!
次に大室山。
こんもりとしたフォルムに惚れ惚れ。
シャボテン公園の場違いな中南米音楽をBGMにリフトで頂上へ。
「おおむろやまりもっこり」はいなかったけど、すばらしい景色が広がっていました。
そろそろ甘やかしてきたロートルの足に乳酸がたまってきたので温泉に行くことに。
絶景の望める日帰り温泉へ。
サウナと水風呂を行き来するエドゥさん。
オヤジじゃないっすか!
清めた体にマイナスイオンを浴びようと今度は河津の七滝へ。
かに滝のスケールに圧倒されながら間違えた道を引き返す。
大滝の時間制限あとわずか。
老体に鞭を打ち小走り。
さすがの大滝、マイナスイオン半端じゃない。
ひんやりと癒されたのもつかの間。
帰りの坂道でプラマイゼロ。
そろそろのどが渇いてきました。
いろいろありまして断食も敢行していたのでした。
家に帰り、ささやかなつまみと冷酒、ビール、焼酎を時間を気にせずまったりといただきました。
学生時代を髣髴とさせる語り合い。
でも学生時代と違うのは日をまたげずにおねむがやってくること。
虫の鳴き声を子守唄におやすみなさ〜い。
明けて今日、見上げれば突き抜けるような青空。
これぞ日本の夏!
ドライブ日和ということで、伊豆の海岸線を走る。
海と空のコントラスト。
カーステレオのスピッツが青春だな〜
天城のループ橋を果敢に攻めたら、浄蓮の滝に到着。
またもやマイナスイオンに癒されるも帰路でプラマイゼロ。
おなかが減ったので、ごはんを。
行く店ことごとく臨時休業。
お昼から堂々とビールの飲めるお店に行き着いて「万事塞翁が馬」
昼間から真っ赤な顔をして、伊東駅。
そろそろお別れの時間。
トロンとした目、「電車の中で絶対寝る」
そんな勇ましい宣言を聞いて安心して?お見送りしました。
「僕の夏休み」満喫できました。
これを機に今後もやりましょうね。
ボヤボヤしてたらあっという間に年をとってしまいますから。
人生楽しまないと。
今度は陰性美人の奥さまとご一緒にどうぞ!
「合気道を教える」と「合気道で教える」は似ているようでまったく異なる。
ずっと抱き続けてきた問題意識だ。
「合気道を教える」ことのいかにクソつまらないことか。
定義があいまいで、時代錯誤甚だしい、自己満足的な「実戦性」を謳ったり、いかにも勇ましい筋肉的な技を礼賛したり。
本質から逸脱した浅薄な議論に終始する“大人”の幼稚性に辟易する。
人間にとって、生きることにとって「大切なこと」とは何か。
それを教えられるのが真の教師なのではないか。
天皇について考えていた。
「自分を一番自由にしてくれる束縛は何か?」
「人は自由には耐えられない。家族、社会、組織、国家、法律からも自由。そんな存在はもう人間ではない、それは人間というより獣に近い」
「人はどこかに「帰属」する、誰かに「承認」されるという「束縛」があって、初めて安定が得られるものだ」
そんな文章に触れて、日本という国が世界に類を見ない「治安の良い国」「良識にあふれた国」であることの理由がわかったような気がした。
海外に赴けば即座に感じることだが、日本はきわめて特殊な国だ。
和辻哲郎はその著書「風土」で『「南洋」(東南アジア)中国、日本を含む地帯。(モンスーンとは季節風のこと。)特に夏の季節風地帯を指し、熱帯の大洋から陸に吹く風により、暑熱と湿気との結合した「湿潤」を特徴とする夏の太陽、旺盛な植物、豊かな食物めぐむ自然は(生)、受容的人間類型形成され、同時にまた、自然は大雨・暴風・洪水をもたらし忍従的人間類型が形成される。』と洞察しているが、自然に対する「畏敬の念」日本人の「八百万の神」は人間を人間足らしめる優れた知恵なのかもしれない。
いわずもがな日本人の「カミ」は超越的な「GOD」ではない。
大先生は仰った「神ながら天地のいきにまかせつつ神へのこころをつくせますらを」
合気道は神ながらの道である。
「カンナガラ」=「神々とともに」「神のご意志のままに」
現代を覆う「不安」や「混乱」は「権威の不在」「無秩序」と同義だ。
とはいってもお仕着せの権威に盲従したり、一方的に押し付けられるものではない。
敬意と信頼に支えられた「権威」こそ必要なのではないか。
「カミのご意志のまま」に、「カミの意に背かない」生活を常に心がけること。
『「教えられたことを忠実に守る」のではなくて「おのずからカミの意志というものを推し量って生きる」信仰が「かんながら」なのです。』
これこそ日本人の謙譲の美徳であり、世界に誇るべき品格なのだろうと思う。
僕は以前こんな文章を書いた。
『「僕たちはシステム(型)の世界で生きている。」その事実を認めることから上達の道程が開かれる。僕たちは型の中で初めて最大限に楽しむことを許される。換言すれば本当の楽しさは型の中にしかありえない。それは帯を締めてますます丹田(コア)が充実してくるのに似ている。時に帯で締められることを嫌う者がいる。型に“はめられてしまう”という発想だ。彼らにすればあえて型に“はまっていく”人間は卑屈で貧弱に見えるのだろう。ところが彼らの心理の裏には本質的な人間観に対する根拠のない絶対的な自信がある。これは危ういことだ。眼を曇らせる。あらゆる可能性を秘めたものを見ても自らの嗜好に見合うものしか見取ることができなくなる。無知を知らないでいるということは可能性を狭めることに他ならない。帯で締められることを嫌う人はコアの欠落した表層の筋肉的な技になることがまたおもしろい。型に“はめていく”ということは自制をかけていくということだ。生得的に備わった不必要な癖を見極めそれを取り除き洗練させていく。『ほっといたら下品になっていく。』という謙虚な発想に立脚して、あえて抑制しているところに美があり、ここが感性の働かせ所なのだ。決して型は感性を蹂躙しない。常に自分に対して下品であることを戒め、美を追求していく。それは技術的に見てもコアが活かされ老いてなお強さが際立つ極意に近づくことを意味している。
また目指すべき型を自分で決めるということは暫定的な基準を持つということでもある。それが正しいかどうかは関係がない。わからなくていい。自分の立つ位置が決まらなければ隣との距離も分からず自分がどこにいるかも分からないで迷子になる。これでは自分の足元を見るばかりで遠くを見渡す視点が生まれない。しっかりとした土台があって初めて顔を前に向けて歩ける。地に足つけて歩いているうちに道の種類も通行人の違いも経験的におのずとわかるようになる。
真の自由は自由とはまったく無縁と思える型の地平にあるということ。この真理を知る者こそ正統な求道者であり、眉間にしわを寄せない!?したたかなロマンチスト(合気道家)なんだ! 』
合気道は日本の武道だ、否、合気道は日本的精神の王道だと僕は思っている。
ただし「カンナガラの道」であり続けるうちは。
マクロビオティックで解き明かす道(タオ)の原理 武道が伝える日本精神の源流」の中でジョージオーサワは、
『植芝は優劣を争う試合というものを禁じている。合気道の目的は、自分自身の未熟さを学び、この世の人間的勝利のはかなさを学び、人間の弱さ、人間のくだらなさを学ぶことにある。これは幸福で自由な人間になるための哲学的宇宙論的教育である。これは、力の強弱を争ったり、筋肉や動物的器用さの優劣を競ったりする単純なスポーツとはまったくワケが違う。精神的、哲学的、道徳的、宇宙論的優越性を競うものなのだ。これは、平和の方法論である。』と看破する。
この文章を読んで僕はこんな感想を抱いた。
『合気道がなんたるかを知らずに、ただやみくもに稽古する者が多くないだろうか。
知らぬ間に西洋的な価値観に染まり、堂々とスポーツしている者ばかりと言ったほうが正しいだろうか。
かく言う自分もその一人だった。
どこか違和感を感じながらも。
僕の救いは深層にねむる日本的精神がまだ死なずに生きていたということだ。
かすかだが切実な想いがジョージオーサワとの縁を引き寄せた。
そして今こうして気が付くことができた。
大先生の嘆きはオーサワの言葉を借りて現代人に最後のチャンスを与えているようでならない。
いよいよ食生活の乱れは現代人の身体を食い破り、かすかに残る日本的精神を完全に破壊せしめるだろう。
「信」とは全き最高の知恵である。
「信」の構成は、完全に透明で、同時に透過力がある
「信」の外見は、最高に優美で、最高に楽しいものである。
脈絡のない突然の引用で混乱されるかもしれないが、僕の心に残った文中の言葉だ。
今現在の僕の未熟な理解力だが、このように解釈した。
合気道の稽古は「信」を育むものだ、と。』
今改めて思う。
「信」の一点において合気道の真価が問われるのだと。