スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
ヨガのポーズ(アーサナ)をするとき、呼吸を止めないように心がけています。
常にゆったりと深い呼吸をしながら身体の声に耳を傾け、一切の分析や批判を排して、ただありのままを感じ認めるようにします。
その反対が、息が止まったり、早く浅くなったり、苦痛に顔をゆがめ、自分の未熟さ不完全さに嫌悪感や自責の念を募らせるあり方です。
どちらが健全でしょうか。
野口体操の始祖、野口三千三はこう言っていました。
『すべてのものやことにおいて、「これはいいぞ!」とか「これはほんものだ!」という感じを起こさせる「何か」は、「息をするのが楽な感じ」「楽に息ができる感じ」をその本質とし、自分の中の原初生命体との間で、しみ(滲)とおる・ひた(浸)される・みた(充)されるという関係が生まれる、というように感ずる何かなのである。したがって、息が楽にできないようなものやこと、たとえば、息が詰まったり、息苦しいようなからだの動きは「悪」である。』
理想的な結果を期待するばかりに「今」を犠牲にするというあり方は、結局、息の詰まる生き方となるのでしょう。
そもそも「今」この瞬間を大切にすることでしか、健康的な体も心のやすらぎも訪れないと思うのです。
丹田呼吸法の大家、村木弘昌はこう言っています。
『健康、健康とそれに関するものを目の色を変えて探しまわっている人が多い。そして最後に到達したものは外物ではなく、わが体内に健康のもとが完備していることに気がつく。正しい呼吸、よい呼吸である。』
外物に求め、他物に頼るということは、自分の外側から獲得しようという心の表れであり、その根本には「自分には不足がある」という不安や恐れが見出せます。
他の誰でもない自分の生命を信頼せずに不足感だけを刷り込んで、生命は本来の力を十全に発揮できるでしょうか。
ヨガの泰斗、沖正弘は以下のように述べています。
『ヨガでは心身の状態を示す代表者が呼吸であり、呼吸は心身の変化に先んじて変化するので、呼吸をコントロールすることが心身コントロールの鍵であると教えています。たとえば、おちついている呼吸(長くて深い呼吸)をしていれば、心身は自然におちつき、くつろいでいる呼吸(笑っているときのような、吐く息に力の入った長い呼吸)をすると自然にくつろいできます。この反対に、吸う息に力を入れたり、呼吸が浅かったりすると、無意識のうちに心身が緊張してきます。』
呼吸を長く深くしていく具体的な方法がヨガのアーサナや呼吸法ということでしょう。
自律神経の支配を受ける内臓の中で、唯一意識的に働きかけられるのが肺でもあります。
すなわち意識と無意識の架け橋になる部分です。
まずは呼吸に気づき、意識的に整えていくトレーニングを積んでいきます。
すると次第に呼吸を感じていくだけで呼吸が深まっていく境涯に達していくようです。
瞑想の真価がそこにあるのでしょう。
「息方は生き方」とは言い得て妙。
やすらぎは「今、ここ」に
生命に対する全幅の信頼を置くのであれば、その“ゆがみ”もまた心身両面でバランスをとろうとする生命のけなげにして尊い働きの結果なのだろうと思う。
目に見える骨格的、肉体的なゆがみを矯正するだけで、生活面や精神面でのクセや傾向に気づかず、症状の消失をもって本質に目を向けることを忘れればそれは本質的な整体にならないのだろうと思う。
木をみて森をみず
ある一部の骨格に着目し、その構造的なゆがみを正すことで全身にその影響が波及し、その結果全体的に好転していく事実はある。
一方で微に入り細を穿つ技術は、批判する細分化された西洋医学のあり方と軌を一にし、全体的、総合的な視野を欠き、本来の生命の働きに対する敬意を失う恐れがあるのもまた事実だ。
体を整えることで、それと一体となる精神を整えることにつながる。
であるならば、心を整えることもまた体を整えることにつながることも理解しなければならないだろう。
目に見えることだけがすべてではない。
「やすらぎ」という言葉が上滑りしないためにも、人間の苦しみの根源とされる「生老病死」に真摯に向き合っていく必要を感じている。
自分を含め戦後世代の危うさはその宗教心のなさにあるようでならない。
それは既存の宗教に帰依するということとはまったく別のことで、「生きるとは」「老いるとは」「病むとは」「死ぬとは」ということに対してしっかり向き合ってきただろうかという自戒の念から発している。
宗教という言葉に語弊があるならば「拝むこと」つまりすべてを肯定的に受け止めていく姿勢が培われていただろうかと。
カンフル剤的な一時しのぎの「やすらぎ」から、生命に向き合い「生老病死」をあるがままに受け入れられる、今とその延長上にある将来にわたって約束される「やすらぎ」がこれからは求められていくのだろうと思う。
そのためにもまず、この生命を、この自分を、認めることから出発しなければならない。
今読んでいる本。
必要なときに必要な本に出会える。
つくづくそう思うのです。
自分に準備が整ったとき、満を持して読まされるというべきでしょうか。
日々の生活で試行錯誤、さまざまな経験を積んでいく中で、昨日より今日、今日より明日と少しずつでも成長、進歩しているのだ実感できるのも、こうした素晴らしい本に出会えてこそです。
人に勧められてもなかなか読む機会に恵まれない本もあれば、すごく気になってすぐ手元に置いて読む本もあります。
結局、自分の中にある魂と感応するかどうか、それは理屈を超えた縁とでも呼べるものでしょう。
であるならばネガティブな精神状態で不機嫌を気どって生きるよりも、常にポジティブな高い波動でいたいものです。
おのずと人もモノも相応の縁に恵まれることでしょう。
そしてこの本はまさにその心の持ち方を教えてくれるものです。
『平和とは単に暴力がない状況のことではありません。理解と洞察と哀れみを育み、それを行動に結びつけたとき、初めて平和は実現されます。平和とは「気づき(マインドフルネス)」を実践すること、すなわち自分の考えと、行動と、その行動の結果をきちんと意識することです。気づきは単純なようでいて、とても意味の深いものです。私たちが毎日の生活において意識的に哀れみを育んでいれば、一日ごとに暴力は減っていきます。それが自分の家族、友人、社会に、よい効果をもたらすことになります。(本文より抜粋)』
月並みですが、この本をおすすめします。
頭では理屈が分かっていても、なかなか身にしみてこないものです。
「どうしてうまくいかないんだろう」
「こんなに固くてはどうしようもないな」
「もっと柔らかくしなければ」
そんな思いに駆られながら、むやみに焦り、いつしか自らの身体をモノか奴隷のように動かし伸ばしている自分に気づくことがあります。
「こんなとき、自分は自分に暴力を振るっているのかもしれない」
その気づきは僕にとって画期的なものとなりました。
自分にやさしくできない者がどうして他人にやさしくできようか。
自分の中にある不安や怒り、憎しみの感情を増幅させるような行為は、いつしか他人を傷つけることに結びつきはしないか。
「ヨガとは何か」
知識として理解していたものが、身をもって経験することで「気づき」を生んだようです。
固いとか柔らかいとか、それはひとまず置いて、まず事実をありのままに受け入れてみる。
そのこころとからだに「ありがとう」といつくしんでもいいかもしれません。
わきあがる感情を否定したり隠蔽したり抑圧したりせず、あるがままの自分を認めてあげるようにします。
「やすらぎのありか」
それは自分の中にあります。
自分を最大限信頼し、自分の内にある「やさしさ」に気づくことです。
その「やさしさ」を行動に移すことがヨガであり、「有り難い自分」に気づくこともまたヨガなのでしょう。
「捨てたもんじゃないぞ、自分!」
ますますヨガが、そして自分が好きになりました。
アタマ(意識)だけではわからないことがあります。
だからこれからも続けていきます。
今この瞬間、輝ける自分でいられるように…
伊藤式の胴体力を習い始めました。
知る人ぞ知る身体開発法です。
伊藤先生は少林寺拳法の達人ですが、ヨギ沖正弘に師事したそうです。
静岡出身とのことですが静岡は三島に沖ヨガの道場があったこともあり、何かと縁を感じさせる土地柄です。(ちなみに伊藤先生が師事した修正体操の原崎勇次も静岡出身)
まだ間もないですが、胴体力を習い始めて感じたことは、伊藤先生という天才の感性で見抜かれたあらゆる身体操法の核心部分がぎっしり詰まった体系だなと。
自分の身体の変化にも驚かされます。
その即効性が何よりの説得力です。
『私は、身体を分けて意識できて、使えなくては、どんなジャンルにおいてもプロとは言えないと確信している。それができれば、力まずに涼しい顔をして難しい作業をこなせるが、できなければただ「努力してます、頑張ってます」という姿勢だけが伝わって押し付けがましいものになってしまうだけだ。ただ、最近は、その「頑張り」を売り物にする人が、スポーツ、芸能、芸術の世界に増えているように思う。それは、プロとはいえ身体に対する感受性の鈍い人が増えたのであって情けないことだ。同時に、そういう頑張りを「野暮」と言えない、受け手側にも問題があると思う。動きのプロフェッショナルとは、自分(他人も)の身体の隅々に気を配れる人だ。』(胴体力入門)
これから楽しくなりそうです。
押入れに眠っている美坂鉄球を掘り出してこよう!