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人の生命を奪っておいてハンガーストライキはないだろうと思う。
ガンジーに端を発するハンストの歴史は、キリストや釈迦などの宗教家の行法に由来するより精神的なものだ。
身勝手な自我を増長させるための方法ではない。
2週間が経過したという。
文献のよると断食の限界は、下等動物になるほど長期間耐えうる。
犬は水だけで100日生きる。亀は18ヶ月、蛇は22ヶ月。
人間は1831年にイタリアの囚人が水だけの断食で62日目で死んだ記録がある。
1980年にはロンドンの医大で職業的断食家が42日間の実験を終了している。
報道によると水や緑茶を飲むくらいだという。
これは専門的に言うと「水断食」や「完全断食」の部類に入る。
宗教的な行法として、または過去ある時までは病気治療に頻繁に使われた方法だ。
しかし、最近は一般的に行われなくなった。
それは現代人の置かれている環境が複雑となり、疾病構造や体質、気質が大きく変化していることにある。
つまり完全断食に耐え得る体力が備わっておらず、自然治癒力を喚起する以前に、いたずらに体力を消耗するだけで害あって一利なしの状況になってしまうのだ。
断食療法を含めあらゆる療法は時代の変化を考慮に入れる必要がある。
健康の前提は「血液の質」と「血液循環」に還元されると思うが、断食療法もまた内臓の積極的休養を図りながらも、健康に不可欠な穀物菜食の基盤となるような小食を実行しながらの「半断食」の形式をとることが多い。
経験から言えば、断食を成功させるためには、それに臨む心身の構え、特に強固な意志が不可欠だ。
反対に不安とか動揺は容易に断食を拷問に変える。
彼のとる行動は犯罪者の心理に基づくものであって容易に想像できないが、動機が正しいものでなき限り、健康も心身のミソギも図れないだろう。
真実を明らかにし、公正な審判を受ける前提なくして、断食はただの独りよがりにしかならない。
なお、周到な回復食を考えなければショック死を起こす危険をはらむ。
真実が闇に葬られる前に関係各位の善処を期待したい。
『あなたのからだを「聖なる魂」を宿す、光り輝く「移動神殿」にする方法と哲学が、ヨガです。』
なんて端的なんだろう。
沖先生の弟子である内藤先生の著書「綺麗になるヨガ」の冒頭の一節だ。
『内側を切り捨てて、外側ばかり綺麗にしようとしても、道は遠く、無理があります。』
物事には「あり方」と「やり方」があるのだと思う。
「やり方」を追求して、「あり方」を深めていく努力を怠れば、ある程度のところから先、つまり上達への道は次第にふさがれていくのだろう。
一般的に「ヨガ」といってイメージされる、ポーズをするヨガのことを「ハタヨガ」と呼ぶ。
『「ハ=ha」は、太陽、吸う息、凝縮をあらわし、「タ=tha」は、月、吐く息、拡大をあらわします。「ハタ」は、太陽と月、陰と陽が一つに結ばれたもの、という意味です。言いかえると、光と影、昼と夜、男と女、心とからだ、夢と現実…のように「対立」しているように見えるもの同士を一つに結びつけたものという意味です。反対物が対立している場合は、闘争的で、破壊的なエネルギーが渦巻きます。逆に、反対のもの同士が、それぞれの“ちがい”を認め合いながら、調和を求め、一つに統合しようとすると、否定的で悪魔的なパワーは変容して、肯定的で、創造的なエネルギーに転換され、<新しいもの>が生み出されます。』
「やり方」を追い求めると、どうしてもアウター(表層筋肉的な)動きになり、破壊性が伴ってくる。
「若気の至り」で済めばいいが、本質とは乖離した勘違いが横行しては“道”の存在意義が失われる。
そもそも「あり方」が厳格に問われているだろうか。
合気道の場合もしかり。
大先生曰く
『合気道の鍛錬は真理の鍛錬にほかならず、よく努め、よく実践し、よく究め尽くすところ、すなわち「神業」を生ずるのである。
合気道は次のごとき鍛錬を実行してこそ、真理不動の金剛力が己の全身に食い入るのである。
1.己の心を宇宙万有の活動と調和させる鍛錬。
2.己の肉体そのものを宇宙万有の活動と調和させる鍛錬。
3.心と肉体とを一つに結ぶ気を、宇宙万有の活動と調和させる鍛錬。
この3つを同時に、理屈ではなく、道場において、また平常の時々刻々の場において実行し得た者のみが合気道の士なのである。』
合気とは、何と合わせるのか、大先生ははっきりと明言している。
にもかかわらず、合気道を「相手と気を合わせる」といった程度の理解では、野蛮な闘争術の域を出ない。
僕は合気道を数千年の歴史を有するヨガと同等の価値があると見ている。
今後数千年にわたって世界中で連綿と受け継がれ、心の平安と世界の平和に寄与する日本文化の精華だと信じている。
「道」はつくづくひとつなのだと思う。
だからこそ、ひとつの「道」にだけとらわれるのではなく、本物の道と呼べるものに出会ったら、そこからも学び、常に「あり方」を見直し、より深めていくべきだろう。
外見は「静」にして、内的な感覚はきわめて動的でクリアな状態を「スミキリ」と言った。
目に見えるものだけの追求で失われるものは大きい。
見るからに猛々しい動きに真理はない。
大先生曰く「21世紀は合気道の時代である」
善行を積み善果を重ねるカルマ的稽古観へ。
より柔軟に、より調和的に、より瞑想的に
今の自分が幸せの絶頂にあると自覚したとき、それをきっかけとして少しでも還元したいという気持ちが芽生えた。
毎月決して多いとはいえない金額であるが、自分のできる範囲で支援したいと思った。
発展途上国の子どもたちに。
目に留まったNGOプランジャパンは井戸や学校、保健所などを作り、また子どもたちの可能性を引き出すことを目的として掲げている。
将来のある子どもたちに教育の機会を与えることは、地道で成果が出るまで時間のかかることかもしれないが、意義のある本質的な援助だと思った。
僕ら日本人は当たり前のように教育を受け、好きな本をいくらでも読める。
この幸せをどれだけかみしめているだろうか。
今の僕に「寄付をしてやる」という気持ちはない、「寄付をさせていただく」という気持ちになった。
この気持ちの芽生えが実際の行動に結びついたのかもしれない。
今まで僕はまとまった形での寄付をしたことがなかった。
拒んだわけでも避けてきたわけでもない。
ただそういう気持ちになれなかった。
それは金銭的な余裕というよりは精神面での成熟が追いついていなかったようだ。
しかし、今こうして公私共に周囲の恩恵を受け、生かされている事実を実感し、あたりまえの感情となった。
世界には厳然として富の偏在がある。
自分の手に余るほど入りすぎたと感じたら、気持ちよく手放すのが生命のあるべき姿なのだと思う。
人生の節目に立ち、この地球に生きる生命の一員として、幸せもそして痛みも分かち合う覚悟ができた。
そんな僕はとても幸せだと思っている。