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健康法を求め、しきりに言及しているのには理由があります。
ただいたずらに、それをペダンチックにもてあそんでいるわけではないのです。
いわずもがな、単に自分だけ健康で長生きしたいなどという手前勝手な論理でもありません。
僕は東京の下町に生まれ育ちました。
土地柄、戦争の名残を肌身で感じることができました。
それは東京大空襲(1945年3月9日未明)で親族を亡くし、またその壮絶な体験談を祖父母に聞かされて育ったということもあります。
また幼少期、反戦思想のコミュニティと接する縁があって、一層戦争に対するえもいわれぬ恐怖感が植えつけられていきました。
焼夷弾が無辜の市民に向けて投下される映像、原爆に被爆し全身ケロイドを負った人々の写真など、目にする機会が多かったといえます。
見せられる映画は「火垂るの墓」をはじめとした反戦ドキュメンタリー映画。
いつしか僕は心細い夜の寝床で「今、戦争が起こったらどうしよう」「突然空襲が来たらどうしよう」そんな思いに駆られるようになりました。
周囲から見たら幼稚な妄想だと思われるでしょう。
しかし、その当時の僕にとっては切実な悩みだったのです。
大学で国際政治を専攻したのも、常識で納得させても地下水脈でうごめくような幼少からの不安を解消するためだったのかもしれません。
そして大学で学んで気づいたことは「何の理由もなく戦争は起きないこと」
一方で「人類の歴史は戦争を繰り返し、今もなお惨劇が止まないこと」
幼少から引きずっていた無知による稚拙な恐怖感は取り除かれても、あまりにやりきれない現実に対する愕然とした思いが残りました。
政治システムで平和を構築しようとする人類の試みも学問的に知ることができました。
しかし、いまだ実現されないのは政治の担い手が紛れもなく人間であって、その人間の心にこそ原因があるのではないかと気づき始めるのです。
いかに反戦平和を望む人がいても、戦争を好む人がいれば戦争へ突き進んでしまう。
欲望や利権にまみれた現実から逃避するように、平和に対し一見逆説的な武道を通して平和のあり方を学んだりもしました。
そんな折、この言葉に出会うことになるのです。
「平和の問題は必ず食の問題にぶち当たる。平和のメロディーは食生活の中で鳴っているんだ」
食養家桜沢如一の言葉でした。
今の今まで食に無頓着で悪食を極めていた自分がいました。
だからこそ身にしみる真理でした。
本質に迫れば、人間の心に尽きる。
そしてその心を穏やかにもし険悪にもするもの。
それは日々の生活で欠くことのできない絶えざる食の影響力でした。
「人間にとって自然なあり方とは何か?」
この疑問が僕の原動力であり、知的好奇心の源になっているのです。
「弱肉強食」であっていいはずがない。
野生の動物がそうであったとしても、人類だけは調和と共生のうちに気高く生きてほしい。
そんな願望に近い祈りが僕の心を突き動かしているのです。
現在つかの間の非戦時を享受している日本。
先人の悲劇の上に築かれた繁栄。
はたして人類は何を学んだのだろうか。
同じ惨禍を繰り返さないために。
口はばったいですが、僕はこの身を通して「愛」に至る道程を切り拓いていければと思うのです。
先日、春合宿に参加した。
青春を賭して稽古する若人の醸し出す雰囲気。
「心を込めて繰り返す」
そのまなざしの美しさに身がすくんだ。
合気道ならではの「この感じ」を以前文章におこしてみたことがある。
以下引用するが、「合気」がその場に充満するためであったのだと改めて感じた。
大きく和するの道、世界平和への架け橋となれ。
合気道の稽古において繰り返される見取り稽古の価値について再検討したい。
「見取り」とは辞書によると「見て知ること。また、見て写し取ること」となる。
すなわち師の技を見てそれをそのまま体現する稽古ということである。
しかし、表面をさらうようにして写し取ることでないことは経験から知ることである。
まず一度見てできるほど容易なものでもなければ、何度繰り返しても容易ならざるものであるからだ。
では見取り稽古はどのような要領で行うべきものなのであろうか。
まずは「見取る」という語感から「視覚からの情報」を得ることが一つである。
特に初心者の場合、「この技は何であるか。」が最も関心事である。
わかりやすく言えば「四方投げ」と「入り身投げ」の違いを認識するという段階である。
次の段階としては手や足の動きといったより具体性の高い情報への関心である。
この時点での幅や角度、姿勢といった個別的な視点が養われてくる。
さらに技が身体に染み込んでいき若干の心的な余裕が出てくるにともなって他者との相違やスタイルを理解することができる。
その段階となって師の特有の動きやリズム、情緒にいたるまでが見取るべき対象となる。
しかしここで大きな障壁にぶつかることになる。
それは蔓延する風潮とも言え又自己が抑制的に働きかける強迫観念でもある。
つまり「見取る」ことに対して「猿真似」「コピー」「ミニチュア版」といった批判的なニュアンスの萌芽である。
人のマネをすることにどこか後ろめたいような背徳感にさいなまれるのである。
「パクる」という横領、強奪的なイメージや、ややもすると盲従、怠惰なイメージがまとわりつく。
反対にオリジナリティや個性が礼賛される風潮がありはしないか。
日本の武道や芸道の世界には伝統的に「守破離」という教えがある。
最初は師の型や動きを真似て忠実に伝統的な型を守っていく。
次に伝統をうち破って自分なりのオリジナリティを模索していく。
そして最終的には型を離れ道の奥義に到達する。という教えである。
それはまさしく理想的な道程であることはいうまでもない。
しかしここで強調すべきは守・破・離は決して優劣ではなくまたそれぞれ個別のものではなく段階的に連続しているものであるということである。
つまり守なくして破はありえないのである。そしてここで取り上げるべき問題は守から破への移行のタイミングか非常に難しいということである。
守は技の基本にして本質といえるのではないか。
そこを軽視しては身勝手な我流に陥りその道の深遠にして尊い極意に到達することはできない。
ましてや身体意識・身体感覚の乏しい現代人が身体知そして自然的な感性が豊かであった先人よりも早く破に移行できるとは到底思わない。
もし実現させたとしてもそれは身体軽視、意識主導の現代人の傲慢の産物であり、その軽薄な精神が極意をさらに遠ざけるであろう。
よって現代の「個性」「主体性」「自発性」といった耳障りの良い言葉に隠れて見失いがちな「守の段階」すなわち「見取り稽古」の価値を再検討したいのである。
そこで「真似る」という行為の質や深度をもっと考慮に入れていきたい。
すると「技」という言葉に対応して真似るに似た表現として「盗む」という言葉が見出せる。
辞書によれば「ひそかに他人のものを取って自分のものにする」とされる。
簡単にいえば泥棒の仕事である。
しかし、技は金品でなければ物質ではない。
「技を盗む」という慣用表現は今なお頻繁に使われるものである。
この場合の盗むは「かなりポイントを絞ったやり方」「本質をつかんだやり方」と言えないだろうか。
自分の大事にしていた物だからこそ「盗まれた!」となるわけで、とりとめのない物であれば盗まれたという実感すらないかも知れない。
そう考えると先程述べたような真似ることに対しての否定的なニュアンスはなくなり「盗む」という行為は誰にも容易にできるわけではない洗練された高等技術であることが理解されるであろう。
そして盗まれる物に価値があるように多くの人に真似され盗まれる型はすでに一流であると言える。人々を引きつけてやまない魅力があるのであってその本質に人は無意識のうちに神(真・善・美)=極意を見ているからに違いない。ここにきて感性は活かされるべきである。
それでは「盗む」という行為をより具体的に掘り下げてみる。
盗む対象は本質であることは前述した。ではその本質とは何であろうか。
見取り稽古では種々様々な技を行う。正面打ちもあれば片手取りもある。
立ち技もあれば座り技もと言うように非常に多くのバリエーションがある。
また一つの技をとっても様々な変化、応用が可能である。相手との状況やその時の感情もまた変化を促す要因となる。
本質とはその一つ一つの変化や部分的な事象でないことは明らかである。
辞書によると本質とは「物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿」「哲学で、存在するものの基底・本性をなすもの」とされている。
この場合、後者の哲学的な用法がわかりやすい。つまりすべての技に貫いているもの、その底に流れている共通のものである。
これを人は観念的にスタイルと呼ぶのであろう。理論的に突き詰めても相違はない。
身体論の先駆メロルポンティはスタイルとは「ずらしの一貫性」としている。
「一貫した変形作用」とも換言できる。その人の手にかかればその人のものになるということである。つまり一見バラバラに見えるものでも「どのように」という方法的な観点から共通点を見出すことが可能とされるものである。
それでは実際の見取り稽古において師の本質・スタイルを見極めるにはどうしたらよいのであろうか。それにはまず一つの技における顕著な特徴をなす重要なポイントを分別し理解する視点が必要である。
「ツボ」と聞いてみなさんはどのようなものをイメージされるだろうか。
点・押すと心地よいポイント・それぞれに症状に対応したポイント、急所などであろうか。
ごく一般的な認識である。しかし指圧の研究を進めていくうちに常識を覆す斬新というよりむしろ奇抜な説を知ることになった。
それは指圧師の遠藤喨及師の「ツボは点でも位置でもない」とするものである。
身体の決まった場所にあるとされているツボであるが本当はツボの位置や深さは人によってまた時間によって異なるというのである。空間的にも時間的にも定まっていないというのである。
では教科書的に用いられる古来より伝承されているツボとは何であろうか。
遠藤師によれば先人は変化するツボが見えていた。しかし時代が下って見える者が少なくなり教育上安全なツボを簡潔に図式化したという。
それが位置を明記されたツボである。つまり古典が揺るぎないものではなかった。
最近の中国では新しいツボがどんどん発表されているという事実からも裏付けられる新説である。
それでは定位置ではなく刻々と変化するツボを見つけるにはどうしたらよいのであろうか。
それには「受け手が最も圧してほしがっている点を想像すること」そして「受け手が今指圧をどのように感じているかを想像し続けること」であるという。
つまり対象の感情を共感によって認識するという方法によって相手の生命実感が自分と切り離された客観対象としてでなくわがこととして感じられる瞬間がやってくる。
その時にツボが見えるのだという。
そしてそれは知的理解ではなく子供のように単純素朴な好奇心、想像力、共感性によるものであるとしている。主客が逆転しそして一体となる境地はまさに「合気」と換言することはできないか。
そしてこの「共感的想像」こそが見取り稽古において必要な感性ではないか。
眼前の師との主客一体というシンクロニシティによって初めて本質に触れることができるのである。
師は何を感じそして考えているのか。好意と生身で厳かに一体となるだけである。
そこに主観の介在する余地はない。いや介在した時点でその関係性は瓦解するものである。
そこに「真似る」という表層的な現象を相手に一度自分の身体を預けてみるという行為として捉えれば「盗む」という行為は故意に働きかけ自覚的に行うというよりも一体となって染まり分離して初めて盗んだことに気付くような無意識的な行為ではないだろうか。
盗もうとしているのだが盗もうとしているのではないという矛盾した論理だが現象はそのように解釈できる。
また東洋医学では「対向発生」といって患者はツボに当てて欲しいが施術者がそれをずらして周辺でじらすと患者の身体がツボに当ててもらおうと無意識的にすり寄ってくるという現象がある。
そこには施術者と患者の逆転現象が起きるのである。
これももう一つの合気として解することができる。
つまり「技を相手にいかに効かせるか」は「技をいかに効かされるか」が一体なのである。
受けが取りになりうる。
「共感的想像力」によって相手の崩れるポイント・ベクトルがわかると言うことはどのようにして心地よく投げられたいかと考えていることなのである。
すると相手を痛めつける、ぶつかるという動きが独善的であるだけでなく主観的であり一体を拒むものであって本当に効く技になり得ないのである。
よって見取り稽古とは「見取る」という語感のような一方的なものではなく「共感的想像」によって「主客一体」するという「合気」そのものの稽古であった。
そして、それは極意に他ならなかった。
知人からこんな話を聞いた。
高校生になる娘にいつもお弁当を持たせているというのだが、この日は「のり弁」
ごはんにおかかとのりを何層か重ねたもの。
僕も大好きなお弁当だ。
ところがその娘さんが学校でお弁当を広げたところ友達に目を丸くして驚かれたと。
「その茶色いの何?」
「おかか」である。
最近では「おかか」を知らない子がいるらしいのだ。
世界に誇る日本の食文化が音をたててくずれているのを目の当たりにする出来事だ。
家にかつおぶしがない。
だしがなければうまみもない食卓ということではないか。
加工食品は化学調味料にまみれて舌を麻痺させる。
いよいよ味覚の崩壊である。
食育という言葉が喧伝されて久しいが、家庭や社会が積極的に育んでいかない限り衰退していくのだろう。
食文化の崩壊はすなわち心身の劣化、衰退だということを日々直視せざるを得ない者として声を大にして言いたい。
「常識」に蝕まれる前に「生命の声」に耳を傾けよう。
そして新しき世界へ
http://www.nextftp.com/tamailab/tamai/syoku.htm