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巷間、「実戦性」の名のもとにえげつない技が横行する。
合気道の型稽古においては約束稽古、つまり取りと受けが絶対的に規定されている。
試合や乱捕りを否定する斯道において、技の途中でそれが逆転することはなく、絶対的な取りに対して、ただ絶対的な受けが存在するだけだ。
ゆるぎない関係性の上によって立つ稽古。
どういうことかといえば、稽古の中において実戦を想定することに、はなから無理があるということだ。
受けをとることを約束された相手に対して、威圧したり、力づくでたたき伏せたり、勢いよく投げ飛ばしたり。
結局いずれも、ひとりよがり、自己陶酔、サディスティックな変態趣味の域を出ない。
醜悪にして陵辱的。
立場が異なっていることを考慮に入れず、何が実戦的というのか。
闘争的な相手に対しているのではないのに、なぜそこまで卑しくなれるのか。
理解ある真の合気道家は、一定の条件を相互の関係性の中に作っていくのは、単なる馴れ合いではなく、そこで初めて理合または技法を探求していく哲学的な営みが生まれることを確信している。
つまり合気道は革新的にして確信的な稽古スタイルなのである。
ところがその本質をはきちがえた一部の人間は、弱さの裏返しなのか、軟弱な精神を持って世界に対しておびえているのか、無知のなせる業か「強さ」「実戦」の呪縛にとらわれ続けている。
大先生にまつわるこんなエピソードがある。
『盛平は、白滝に惣角のための新居を建てたり、生活費のめんどうをみたり、炊事や肩もみなどをして尽くした。惣角は、盛平のつくる食事でないと、「毒が入っている」と怒って投げつけたという。将棋の相手もさせられたが、大雪の降る晩、盛平が将棋の相手をしていると、表のガラス戸をあけて、外套を着たままの客が入って来た。惣角はいきなり片手で将棋盤をつかみ、その客に投げつけたかと思うと、倒れた客に飛びかかり、さんざん殴った。客は血だらけになって正気を失った。その後、風呂で惣角の背中を流している時、惣角は呟いた。「敵かと思った…」その夜、盛平がそばで寝ていると、惣角が布団の中から愛刀を持って飛び出し、「おのれっ!」と叫びながら、大吹雪の中に消えた。戻ってきた惣角は、こう言った。「わしが殺したやつの声が聞こえたのじゃ」盛平は痛感した。「武道が人を殺すのが目的ならば、その行き着くところは地獄だ。殺人剣を転じて活人剣にせねばならぬ」』
なぜ大先生は合気道を創出したのか。
その原点を振り返れば、来し方行く末おのずから定まってくるだろう。
地獄に突き進んでいく稽古がある。
善良な合気道家を巻き込み傷つけながら大手を振って堕ちていく。
負のスパイラル。
一方で愛と感謝の稽古がある。
自分を活かし、他人を活かし、今この瞬間を活かす。
ともに学び、ともに成長していく、正のスパイラル。
その道を合気道と呼ぶ。
大先生が見つけた宇宙へつながる道だ。
恐れることなど何もない。
笑いながら歩こうぜ!
親が子どもを虐待しその挙句に殺したというのニュースがいやでも目に入ってくる。
動物以下
怒りを通り越して全身が虚脱してくる。
オーブンに入れてスイッチを入れた…
洗濯機に放り込んだ…
エアガンを胸に撃った…
熱湯風呂に入れた…
動機=泣き叫ぶ姿が面白かった
子どもを産み育む。
こんなことは生物、哺乳類の本能として当たり前の行為。
「愛」なんて高尚な言葉を持ち出さなくても、人間以前の営みではないか。
人類は万物の霊長と誰が言ったか。
悪魔の所業としか言いようがない。
人間の面をかぶった悪魔。
この国、日本で今何が起こっているのだろうか。
家庭の崩壊
教育の惨死
物質を極めたところに、理想郷はなかった。
地獄だ。
人間は悪魔にもなれる。
だからこそ神を目指そう。
日本には世界に誇る豊かな感性と文化がある。
目に見えないものに対する畏敬の念。
八百万の神々。
言霊の幸ふ国。
他人事でも対岸の火事にしてもいけない。
自分の中にある日々の些細な暴力に気づき、愛に変えていこう。
今からでも遅くない、人をねたみ、うらやみ、そしるのはやめにしよう。
感謝、懺悔、下座、奉仕、愛の心に生きる。
大先生曰く「いたずらに勝ち負けを争っても、残るものは、勝って虚しく負けて口惜しい我執の澱ばかりだ。勝とうと気を張っても何も見えはしない。真の武の道の根源は「愛」であり、万有愛護の和合の心だ。愛をもってすべてを包み、気をもってすべてを流れに任せる時、初めて自他一体、気心体一如の動きが展開する。相手も我であるとの情を持ち、愛をもって合気することこそ、真の武の道の要諦である。すなわち、武の道を究めれば、おのずと我即宇宙・宇宙即我という大いなる安心感が産霊され、気心体一如の充足感が溢れるに違いない。それが武産という真の武の恩恵なのだ。」
僕が見出してきた合気道と指圧の原理が共通であることを「合気開眼」や「合気解明」などの著作で確信するに至った。
人を倒すことで体感し追試し実証するか、人を癒すことで同様に確かめるか。
その違いこそあれ、本質は全く同じことのように感じている。
活殺自在の本当の意味が立ち現れてきたということだ。
合気は人が倒れる、もしくは持ち上がるということで示されるのだから現象的にとてもわかりやすいと言える。
一方で合気を療術に適用した場合、治癒という事実で現れるべきなのだが、各々の疾病観や生命観、ひいては死生観の相違により、はっきりとした結果を必要としないために、双方に共有される目に見えない実感にゆだねるほかない。
その点が決定的に違うこととも言える。
2008年の7月、増永先生の命日に際して得られたインスピレーションをブログに掲載した。
増永先生の命日に得たあるインスピレーションを追試して、今日、合気道と治療の点と点がつながった。
僕にとっては待望の革命的な出来事。
合気を応用して…なんて人は簡単に言う。
きっとできるのだろう、そう希望的に確信しつつも僕の中で具体的なつながりを感じられずにいた。
それは合気道の稽古によって気付きを得ていながら、社会通念的な合気という言葉にこびりつく語感に惑わされていたからだ。
気を合わせる。
というのは素人的な発想に過ぎなかった。
合ってくる、否、合っている。
それに気付くこと、その一点に尽きる。
我即宇宙。
境界が対する物質的関係性を超えて。
イメージが先行する。
虚実補瀉。
力学的視点を超克して合気の“気”を問題とするならば、東洋思想からその示唆を得られる。
合気道が単なる即物的、肉体的な運動に堕した時、それはもはや合気道とは名ばかり。
似ても似つかない代物になろう。
先人の果たした次元上昇の成果を、無知、無教養がふみにじっていく。
いかにも力強く恥ずべき醜態をさらすか。
先人の言説にわざわざ我を出し一笑に付す感性にどうして合気が理解できようか。
すでに合っているというのに
今読み返すと本当にその通りだと思うのだが、なかなか実践に結びつかないのはこびりついた常識と己の我の粘着性に尽きる。
増永先生はこのように述べていた。
『患者が我を捨てるためには、これに対する治療者が、まず自我を捨てねばならないということである。
精神療法でもこのことは強調されているが、経絡をみるためには、陽の世界の中心である我をとり除かねばならないのである。
経絡は見ようとして見えるのではなく、患者の見せてくれるのを待って、見えてくるということである。すべてを経絡によって理解し、経絡の中に自分を没入していくと、指なり鍼なりが自らツボに導かれる。
そうして患者を治すのではなく、経絡の働きで患者は治ってゆくのに気付くのである。
患者が治らないときは、治そうとする自分が邪魔していたとわかる。
こうして日々の治療が、まさに己の修業のためにあると気付き、常に己の気をととのえる努力が、治療者に与えられた義務の根本であると心掛け、そうした仕事を与えられたことに感謝しつつ、励んでいる次第である。』
まさに合気そのものと思うのだ。
僕は過去にこんな文章も書いていた。
まぎれもなく今の自分に対して投げかけたメッセージではなかったか。
読み直して明日からの合気の実践に邁進するのみと…
合気道で何を学んだか。
極論を言えば、技の巧拙は関係ない。
技をやらなくてもいい。
本質は「相手の思いに寄り添うこと」
稽古では、見取りであれ、型稽古であれ、ただそれを心を込めて繰り返しているだけ。
それがどれだけ大きな力になるか。
身をもって感じているではないか。
合気道はやり方を間違えれば、大怪我をするように、
心の持ち方次第で負のスパイラルに陥り不幸に突き進む道となる。
相手を征服したい、痛がらせたい、力を誇示したい、
そう思っていなくても、技に表れていたら同じことだ。
一本一本の技にどのような思いが込められているか。
合気道は諸刃の剣だ。
良い方に向けば絶大な力を発揮する。
そうじ力が正のエネルギーの積み重ねであるように、
稽古力と称して稽古の価値を見直したい。
合気道をやって下品にそして不幸になる人が多すぎる。
部の現状が芳しくないとすれば、それは各人の稽古観に還元していい。
すべての出来事に偶然はない、すべて必然。
なんとなくやるのはやめよう。
それは人のためにならないどころか、自分が損をすることだ。
「想い」(視えないもの)の力を軽視してはいけない。
幸せになりたい、より自分を高めたいと本気で思うなら、
今からでも遅くない。
合気道を正のスパイラルに変えよう。
真理はシンプルだ。
何も大それたことをする必要はないんだ。
さあ僕といっしょに稽古しよう!