スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
デフレスパイラルを呈する現代日本。
資本主義の終焉という歴史的ターニングポイントに遭遇する日も近いのかもしれない。
石油資源の枯渇が騒がれ、地球環境の悪化が危惧される。
もう市場は無制限に拡大しないだろう。
当然、右肩上がりの経済成長は見込めない。
勝ち負け、競争原理、それはもはや過去の遺物だ。
大先生は「21世紀は合気道は時代である」と喝破した。
「いたずらに勝ち負けを争っても、残るものは、勝って虚しく負けて口惜しい我執の澱ばかりだ。勝とうと気を張っても何も見えはしない。真の武の道の根源は「愛」であり、万有愛護の和合の心だ。愛をもってすべてを包み、気をもってすべてを流れに任せる時、初めて自他一体、気心体一如の動きが展開する。相手も我であるとの情を持ち、愛をもって合気することこそ、真の武の道の要諦である。すなわち、武の道を究めれば、おのずと我即宇宙・宇宙即我という大いなる安心感が産霊され、気心体一如の充足感が溢れるに違いない。それが武産という真の武の恩恵なのだ。」
時代は、人類は、もう成熟していいのだと思う。
沖先生曰く「不安はとろうとしてとれるものではない。悩みのない人間になろうなどという傲慢心が「はからい」を生み出すのである。不安をとろうとする心がとらわれの心に、はからいの心がこだわりの心になるのである。そうして、それが自分をしばるのである。
自然心(平常心)とは、なんらの対立抵抗のない心である。そのようになろうとすれば、かえって、なれないのが我々である。期待にこだわっていては、「唯行う、無心に行う」ことができない。期待にひっかかるために、不安になるのである。不満が生ずるのである。気になるのである。よくてもわるくてもどうでもよい。私はただひたすらに前進するのだと、与えられるままに「これでよいのだ」という心で生きているものに悩みはないはずだ。そして、「このままでよい」という心もなくなったら、合掌(徹底)の境地である。いっさいを神の摂理(教え)と受けとれたら、信の境地である。まかせたり、求めたりする対象の神仏もなくなったら、無(空)の境地である。無の境地とは、神仏と我とが一体となっている状態であって、この完全なる解脱に達したときには、あるがまま、あってない(すなわち、雲がありながら光にみちている)状態になるのである。」
自他共に対立抵抗を超えて、普遍的な価値を見出していこう。
そうしたら、これからはもっと住みよい時代になる。
以前にもブログで僕の夢物語を書いたが、今もなお一貫して抱いている構想がある。
「道場」を創りたいと思っている。
なんの道場か?
ただの「道場」である。
文字通り「道」というものを探求していく。
だから○○道と一つにこだわることはしない。
生活全般をすべて道にできる感性を提案したいと思うのだ。
沖先生の創出したヨガは、インドのヨガに東洋哲学や禅のエッセンスを取り入れたもので、「求道ヨガ」と呼ばれるように、単にポーズをとるだけの形骸化したヨガではなく、ボディ、マインド、スピリットを包括するホリスティックなものだ。
その特徴として生活そのものを「行法」ととらえている。
お風呂に入るのも入浴行法、寝るのも睡眠行法。
生活そのものを真理探究の方法にするということだ。
つまり人間としての自然性を求め行じていくことでもある。
例えば朝目覚めたとき、合掌してこの誓いの言葉を唱える。
「目覚めの誓い」
ただいまわたくしは、目覚めさせていただきました。
目覚めたということは、生きるに充分な体力の与えられていることであります。
わたくしは今日一日、あらゆることに全力を出し切って生きることを誓います。
食事をいただく前には
「栄養摂取の誓い」
栄養は、自分によいものを取り入れ自分に悪いものをいれず不要なものは出しきることであると知りました。
自分取り入れて良いものと悪いものを知っているのは身体自身にあたえられている智恵であると知りました。
今からの私は、自分の内在智の教えに従って自分に適し、自分に必要なものを取り入れ不要で不適なものは出しきるよう努めます。
いただきます。
そうじの前にはこうだ
「清掃行法の誓い」
ただ今から私は、清掃行法を行わさせていただきます
この行法を通じて、心と生活の清めを誓います。
清い心とは求めない心です。
他に自分を捧げる心です。
一切のものに感謝する心であります。
実際やってみると、言葉の力は侮れないと思った。
最初はばかばかしいと思っていても、合掌して声に出してみると、物事にとりかかるまえにスタンスが決まる。
スジが一本通り、しっかり腹が決まると、主体性、積極性が増し、ただ苦痛でしかなかった雑務も、そのまま修行法であり鍛錬法であり健康法になりうるのだ。
これは単なるおまじないではなく、潜在意識を開発し、理にかなった自己コントロール法だといえる。
なんとなく、スタンスが決まらず、これといった信念もなく、漫然と物事を行う。
これほどつまらなく自他共に非生産的な生き方はない。
人間が人間らしく最高度の輝きを増す瞬間は、人間としての道を歩むという気概を持ち、常に前を向いて進むときなのだろうと思う。
こうした考えに至ったのも青春時代をかけて打ち込んだ合気道から学んだところに大きい。
肉体と精神を横断するそれは、深い思索を求められた。
投げつ投げられつ行われる稽古は、ただひたすらに心を込めて繰り返される。
試合のない合気道は、お互いを活かし合うことに専念し、今この瞬間を二人にとって最高の時間を創り上げようとする気概がある。
そうした愛のエネルギー、合気がほとばしる稽古は、開祖植芝盛平大先生曰く「稽古は愉快に実施するを要す」
もはや殺伐とした旧来の闘争術を超越した、生命が喜ぶ“楽しさ”がある。
経験した者にしかわからないもので、なんとも筆舌に尽くしがたいものでもあるが。
中でも合宿での体験が、僕のその後の志向を決定付けたように思う。
1週間の日程で、午前と午後、夜間に稽古があり、三度の規則正しい食事があり、下級生であれば道場の掃除から食事の配膳、洗濯、風呂の用意など休むまもなく動き回る。
死んだように眠り、また次の朝が来る。
早朝マラソンに出て、朝食にありつく、午前の稽古が始まる。
息も絶え絶え全力を出し切る汗だくの稽古が続く。
そんな一週間は日に日に衰弱していくかといえば、その逆が起きてくるのだ。
完全な空腹の後の食事のおいしいこと、くまなく消化吸収された残滓は程よい固さとボリュームをもって、なんのためらいもなく気持ちよく出ていった。
その一週間には完全な消化吸収、完全なエネルギー消費、完全な呼吸、完全な睡眠があった。
体力がみなぎり、感覚が研ぎ澄まされていくのを感じた。
「今を生きる」人間が最高度にその真価を発揮する。
純粋な向上心が結晶化したような時間、まばゆい光を放つ場所だった。
全日程を終え、帰りのバスの中でいつも思うことは、こんな生活がずっと続けば、どれだけ健康に、そして超人的になるだろうかと。
次第に増えていくビルのネオンを車窓から眺めながら、俗な娑婆に帰ってしまうことのもったいなさを感じていた。
とはいっても娑婆に戻れば人並みにジャンクフードを食べ、煩悩多きキャンパスライフを少なからず謳歌していたわけだが…
しかしながら、人生のモラトリアム期に俗と聖を見渡せる場所に立っていたことが、その後の人生を形作る要素になっていることは間違いないだろう。
「道」の素晴らしさを知る者として、それを伝えていきたい。
現在はその形を模索する日々。
未だ道なかば、前進あるのみ
自分がいかに不幸か自慢するように言う人がいる。
そんな人を僕は同情する。
そこにある傲慢さに気づくからだ。
そこから抜け出さない限り、一生その人は不幸なのだと思うからだ。
自分を卑しめる傲慢。
「卑下傲慢」
それは、他人に慰めてほしいからなのか。
人とは違って、これだけの不幸を味合う自分に酔いしれているのか。
インド哲学では今起きている現実はすべて自分が作り出していると考える。
つまりカルマ思想。
因果応報とも言われるが、自分でまいた種は自分が刈り取るということわざの通り。
今、不幸であると嘆く自分が今の不幸を作っているわけで、未来の不幸を今もせっせと作り続けている事に気づくべきだ。
極論を言えば不幸などもともと存在しない。
目の前の出来事を不幸と解釈したに過ぎない。
己の視野の狭さと思考の偏りをまず自覚した方がいい。
すべて平等だ。
誰か一人に特別の不幸が降りかかることなどない。
人それぞれ人生を歩み、それぞれの困難にぶち当たる。
そんなことあたりまえに、みんな生きて生き抜いているんだ。
それなのに自分ひとり、みじめで、他の誰より不幸だなんて、そんな幻想など捨ててしまったほうがいい。
幻想だと思えないなら、それはあなたの性癖であって、周囲の人にわざわざ表明しなくていい。
てめえのクソをまきちらすように、他人にネガティブな感情をばらまかずに、一人部屋にこもって嘆き悲しんでいればいい。
ヨガでは「全肯定・全活用」の教えがある。
人間が他の下等な動物と一線を画すのは、「生存者」ではなく「生活者」であるということだ。
飯を食ってクソするだけの人糞製造機にあらず、生を活かしきるところに人間としての真価がある。
「感謝・懺悔・下座・奉仕・愛行」
沖先生が示したヨガ的な生き方。
御恩を感じ、おかげを感じ、ありがとうございます、すいません、おかげさまで、という心になれば、不幸などあるはずもない。
不幸だと嘆くことが、恩を知らず、感謝もせず、自分の非を認めず、謝ることのできない、下劣な人間であることの表明以外のなにものでもないことを知るべきだ。
幸せは求めるものではない、今そこにある。