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学校教育における武道必修化に先立って、まず国家のイデオロギーに左右されない、合気道のもつ固有の精神性を明確に打ち出すこと。
それは国家の思惑に毒されないための大前提となる。
より良く生きるための、または情操教育としての側面を持つ合気道は、スポーツ化、競技化を押し進めた他の武道と同一視できない。
スポーツ化、競技化するということは、試合において勝つことが目標とされるということだ。
そのための練習というのは、試合を模したもの、つまり乱取りに偏重する。
一方で合気道で行われる形稽古の本質は、技と身体を練ることにあって、取りと受け、師と弟子との間での共感や同調、一体化というプロセスを経て達成されるものである。
我を強固にし、他を圧倒することを旨とする前者。
我をなくし、他と共鳴することを旨とする後者。
同じ武道の名をもってして、正反対の性質を帯びることを理解し、その差異を明確に喧伝していくところに合気道の希望的な展望が開けるのではないか。
いまだに、形稽古の意義も知らずに、他を痛めつけ、駆逐せんとする稽古を行う者がいる。
もはや合気道ではない。
性癖を押し付ける一方的で卑劣な陵辱行為であって、同時に先人の築き上げた叡智を踏みにじる愚行である。
指導者の資質も、その一点に尽きる。
思い立って白隠禅師ゆかりの松蔭寺に行ってきた。
沼津の二つ先の小さな駅を降りて、歩いて10分くらいだろうか。
白隠さんと親しみを込めて呼ばれるお坊さんは、日本の臨済禅の中興の祖といわれ、仏法以外にも書画や詩文にも才能を遺憾なく発揮したとされている。
まぎれもないカリスマである。
当時、師に教えを乞うため参集した人々は数百人。
要請あって全国にも説法してまわったとされている。
志ある人々の精神的支柱として存在していた白隠さん。
片田舎ながら一大拠点として存在していた松蔭寺。
僕がそこに訪れた理由。
それは白隠さんが、日本の健康法、養生法のカリスマとして君臨しているからだ。
当時のあらゆる医業で治せなかった自身の禅病を、主に内観法と軟その法で治した経験を、庶民に向けた養生法として体系化した。
今なお語り継がれるそれらの方法は、現在の医学に照らしても理に適い、また予防医学的にも、さらにその先進性を見直されていくだろう。
その白隠さんの活躍した本拠地を、一度は見てみたいという好奇心から訪れたというわけだ。
今は何の変哲もない小さな寺としてあった。
皮肉にも並び建つクリニックが目新しいビルで圧倒していた。
地元にも今や威光は薄れ、根付いていないことが見て取れた。
そこで得たインスピレーション。
「場所には意味がない」
「教えの内容こそが大切である」
「真理は受け継がれる」
「カリスマは一代限りである」
カリスマや聖人が、かつて活躍していた場所は往々にして聖域化され崇拝の対象とされる。
そして、その権威にすがり、盲目的にありがたがる人も出てくる。
まったく意味がない。
きっと白隠さんも、それをまったく望んでいないのだろうと思う。
沼津の至近、三島には、かつて沖ヨガの本拠地があった。
最盛期は相当の活気を呈していたと推察される。
今は道場としてのかつての活動はしていないようだ。
増永先生のいた医王会も同様。
カリスマ亡き後、言い方は悪いかもしれないが、名所旧跡としてあるだけで、その内実は当時とイコールではない。
寺はその当時の様式を残しているが、それ以上の価値はないだろう。
歴史を経た文化財としての価値はあっても、見方を変えればガラクタにもなりうる。
大事なのは物質ではなく、色褪せない教えであり、不変の真理だ。
その場で、教えを忠実に継承している人もあるだろう。
尊いと思う。
一方で、あらゆる道、流派の始祖となる人、カリスマとなる人は、決して従来の道を完全に踏襲しているわけではない。
歴史を見れば明らか、自らの才能で咀嚼、吸収し、そこにオリジナルの要素が加わり、再編または昇華させるところにカリスマたる所以がある。
つまり教えは、黙ってても資質のある人の琴線に触れ、場所を離れても、形を変えても、受け継がれるということだ。
もっと言えば、波長が同調した者だけが、その教えに触れることができるということでもある。
考えてみればあたりまえのことだ。
その土地に産まれたからといって、その影響を受けるとも限らない。
ゆえに資質をそなえ、教えに触れることが大切であり、真理を求め、それを実践することがもっと大切になる。
そして、そこから権威を離れ、自らの内から産まれ出たものに忠実であること。
「信じるな、疑うな、確かめよ」
改めて沖先生の教えが心に響いた。
沖ヨガの生命力強化法、通称「強化法」
生物の進化の過程で起こっていることを観察して出来上がったメソッド。
それは「環境への適応である」という卓見。
生物が水中から地上に上がってきた革命的な出来事。
それは重力との出会いだった。
魚類が背骨を左右に揺らして得た推進力は、両生類では左右に飛び出した手足をはいつくばらせるようにして前進した。
爬虫類になると体幹に対して垂直に手足を使うようになり、重力に対してより支えやすい形状となった。
これは四足の哺乳類にみられる形状だ。
ヒトにいたっては、二足歩行によって体幹と足が一直線になった。
手の自由が利き、道具を巧緻に使用するにいたって、脳の発達は著しく進んだ。
こうした進化の過程をつぶさに観察すれば、それはまさしく環境への適応である。
地上に上がれば寒暖の気温差にも適応すべく鳥類や哺乳類は恒温動物へと進化を遂げた。
変温動物は冬季に活動できない。
一切の体の動きがフリーズしてしまう。
冬眠である。
間違えれば抵抗できずに捕食されるかもしれない。
過酷とも思える環境を乗り越え、なんとしてでも生き延びようとする。
これが生命の本質であり、進化こそ生命の喜びとするところである。
そのように解釈する沖ヨガにおいて、ただ単にポーズをとることだけでなく、適応力すなわち生命力を強化する方法が重要視される。
何をするのか。
乳幼児がはいつくばり、そのうちハイハイするようになり、おもむろに立ち上がっていくプロセス。
これはまさに進化の過程の再演である。
この一連の過程を経て乳幼児は力強い二足歩行と生命力を獲得する。
ところがこの一連のプロセスを人為的に妨害した乳幼児、つまりハイハイをあまりさせず、すぐに立ち上がらせた乳幼児はその予後が極めて悪いという実験データがある。
健康上芳しくないのだという。
それは動作を行っているときに、肉体的な鍛錬と、関連する脳の部位が活性化していることを表している。
進化の過程で脳は延髄、橋、中脳、大脳と上積みされる形でバージョンアップされてきた。
人間が他の動物と異なるのは、この最も外側を縁取る大脳皮質の発達である。
乳幼児は生物の進化の過程をたどりながら、その時代に相当する脳の部位を活性化しながら発達していると見ることができる。
つまり、はいつくばり、ハイハイをし、立ち上がる、このプロセスを丹念に行われなければ、脳の発達異常が起こっているとも限らない。
土台となるものが不十分で、その上位であり人間を人間たらしめる大脳の発達もままならないであろう。
強化法では、人間のさらなる可能性を切り拓いていくものであって、同時に生命としての過去にさかのぼり、土台となる部分の再構築を行うものでもある。
磐石の土台があって、上位の人間としての可能性も拓かれるというわけだ。
ハイハイをしてみたり、トカゲのような動きをしてみたり、飛んだりはねたり、野性味あふれる動きを行ってみる。
一見野蛮にみえるのだが、その心身に対する効果、脳機能的な効能は強烈なものがあった。
背骨ひとつとってみても、普段の日常生活では体に手足が生えていて、体幹とは隔絶した形で小手先の動きに終始していないだろうか。
ところがトカゲの動きを模してみると、背骨がダイナミックに波打つようになる。
しゃくとり虫を模してみる。
これは背骨が上下にダイナミックに波打ってくる。
日常ではまったく体験し得ない動きである。
身体運動の開発という観点から見ても、目覚しい成果が得られる。
脳の神経回路の開発という観点から見ても、案ずるより生むが易し。
実際、ダウン症などの知的障害児を対象に行われる療法に類似した運動法が卓効を示しているという。
現在急増するうつなどの精神疾患に対する効果も見込めるのではないだろうか。
手押し車から腰のバウンド、四つんばいから思いっきりジャンプ、腰に紐をくくりつけて後からもう一人に引っ張ってもらう。その抵抗に対して全身、渾身の力で前進する。
手だけ、足だけといった一部分ではなく、丹田を中心として全身を協力するあり方を練りに練って練り上げていく。
単なるエクササイズにあらず。
局所的に過ぎず、有機的な動きを阻害するものでしかない筋トレの次元もはるかに凌駕している。
生命力強化法。
子どもたちの教育にも、情緒不安定な児童に対しても、全身をダイナミックに動かし、自らの身体の可能性を引き出しきることは、心身にわたって有意義ではなかろうか。
詰め込み教育、知識偏重の弊害を克服するのは、身体しかない。
武道の価値もそこある。
自己顕示欲の隠れ蓑として叫ばれる実戦性や、肉食的な獣性の支配欲、性欲処理としての征服欲に裏打ちされた強く痛く意地悪くなどという低次元はもう卒業しよう。
硬くこわばり萎縮していく退化のスパイラルは心身の不健康でしかない。
生きる力の喪失、無気力、不機嫌、生きづらい社会、閉塞感が募る社会、弱者に厳しい社会。
もっともかもしれない。
しかし、そんな時代だからこそ、進化の可能性が開かれているのではないだろうか。
困難な環境から逃げず、それを乗り越え、適応し、生き延びる。
その先にこそ進化が待っている。
腐るも、咲かすも、自分次第。
どうせなら人間として、さらなる進化を遂げようではないか。
力強く、しなやかに